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【紫宸殿の桜】左近の桜は梅だった?いつ変わったか、ご存知ですか?

左近の桜と右近の橘

紫宸殿

京都御所の紫宸殿のお庭には、左側に桜、右側に橘が植えられています。
儀式の際にはお庭に官人が並ぶのですが、御所からお庭を見て左側には左近衛府の方々が、右側には右近衛府の方々が並んだので、左近の桜、右近の橘と呼ばれています。
それでは、この桜と橘はいつ植えられたのでしょうか?

そもそも京都御所が作られたのはいつ?

京都御所の歴史は、794(延暦13)年に桓武天皇が平安京へ遷都した際、都の中心となる大内裏の中に造った天皇の住まい=内裏(皇居)に始まります。
遷都後は幾度も火災に遭い、1331(元徳3/元弘元)年、里内裏(さとだいり)のひとつで公家・藤原邦綱の邸宅であった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)が、北朝の光厳(こうごん)天皇によって正式な内裏として定められました。
その後、1869(明治2)年まで歴代天皇の日常の住居であり、即位の礼など重要な儀式が行われました。
出典:第三十六回 京都御所|京都ツウのススメ|京阪電気鉄道株式会社

最初に植えられたのは「梅」と「橘」

村上天皇の日記『天暦御記』によると、794年の遷都の時に紫宸殿のお庭に植えられたのは、左側に梅、右側に橘でした。それでは、なぜ梅は桜に変わってしまったのでしょうか?

枯失?それとも焼失?

鎌倉時代の説話集『古事談』には、「桓武天皇が遷都した時には梅が植えられたけれど、承和年間(834年~848年)に枯れてしまったので仁明天皇が植替えた。天徳四年(960年)に内裏が焼失したので、重明親王の家にあった桜を移植した」ということが書かれています。

①すると、この承和年間(834年~848年)に枯失したとき、桜に植え替えたのでしょうか?
②それとも、この枯れたときにはまた梅に植え替えて、960年に焼失した後、初めて桜を移植したのでしょうか?

他の文献も見てみると…

平安時代に編纂された『続日本後紀』には、承和十二年(845年)2月1日に「梅の花の前で酒盛りをした」とあります。すると、桜に変わったのは845年以降ということになります。
更に、こちらも平安時代に編纂された『日本三代天皇実録』には、貞観十六年(874年)8月24日に「台風が来て桜が倒れてしまった」とあります。すると、874年までには桜に変わっていることになります。
これらを併せて考えると、①の「承和年間(834年~848年)に枯失したとき桜に植え変えた」という方が正しいように考えられます。

花の宴

いかがでしたでしょうか?
調べてみると、他にも「菅原道真が国風文化のために」という考え方や、「清涼殿での鶯宿梅の故事」と混ざって考えられているものなど、色々な情報が出てきました。
梅見も素敵ですけど、やはり桜のお花見が待ち遠しいですね。

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