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漂うあの香り

高校生くらいまで私はブラックコーヒーが飲めなかった。
ブラックコーヒーが飲めるようになったのはイタリア人がひっそり営むカフェバーに少しどころかだいぶ背伸びをして入った時で、アイスのブラックコーヒーを飲んだ。あとから砂糖とミルクを足すつもりで頼んだ。けれど同行者がイタリアのコーヒーは美味しいと言うので、カクテルのように脚の長いつるりとしたガラスに注がれたブラックコーヒーが特別なものに見えた。一口飲んでだめだったら、と思って飲んでみると、ほろ苦いけれどチョコレートのような甘さで、焦げ臭さもなかった。ブラックコーヒーはこんなにおいしいのかと驚いた。それからブラックコーヒーが飲めるようになった。同じものでも最初に口にしたものが極端に美味しいと、苦手意識を生まずに食べられるようになるのだろうか。逆もしかり。

ブラックコーヒーは飲めるようになったものの、そのコーヒー以来おいしいコーヒーと遭遇することは難しかった。試しにシロップや砂糖を入れて飲んでみたことも何度かあったが、かえって飲みづらくなった。缶コーヒーのような、コーヒー風味のガムシロップのようだった。あのチョコレートのような、でもチョコレートではないなめらかな甘さとは種類の異なる甘さだった。

それでもブラックコーヒーを飲む機会は仕事やプライベートで恰好つけて飲むことがあったりもして、徐々に飲めるようになった。おいしくないなと思いつつ飲める時もあれば、あの時ほどの感動はないがこれはおいしいと思うこともある。温かければ飲めるが冷めると苦手だったりもした。そのうち、酸味のあるコーヒーは苦手なのだと気づいた。

過去のnoteにもあるように、子供がほしいと思い始めて1年ぐらいはコーヒーとは距離をとった。
よくないと言われているものを控えることで自分を鼓舞するようであった。意識するようになって1年は経たず妊娠がわかり、ひきつづきコーヒーからは距離が遠のく。1,2杯は大丈夫だと医師からも言われ、つわりが収まってからは時々カフェインレスではないコーヒーも飲んだ。
いつもカフェインレスとカフェインレスではないコーヒーの味に違いはないと思って飲んでいた。母親がコーヒー好きで、実家にいた頃は彼女の気まぐれでカフェインレスになったりカフェインありになったり、ハワイのコーヒーだよイタリアのコーヒーだよといろんなコーヒーを牛乳と砂糖を入れながら飲んでいたが、コーヒーの味がするという以外気にならなかったのである。ただ私は、兄妹たちがいない母と私だけの時間が好きだった。二人で出窓を眺めながらコーヒーを飲む時間が好きだっただけなのだと思う。

それなのに、たまにカフェインを体に投入すると全然違った。ノンアルコールみたいなもので、カフェインレスでも満足できるのだが飲んだ後の頭や体のすっきり感が違うと体感するようになった。まあそれでも一応、カフェインレスばかり選んで飲んで、機会飲酒のようにたまに、と思っていたらどこに行っても大体カフェインレスがメニューにあって、一緒にいる人のほうがかえって気にしてしまうので大体そちらを選ぶようにしていた。妊娠後期に入ってからは安産にいいと言われるお茶をもらったのでそればっかりになり、コーヒーとは1か月以上無縁になった。

産後、退院して里帰りして、久しぶりに自宅に戻って初めに同居人がしてくれたのはカフェオレを入れてくれたことだった。
本当はそれこそダメなのだが、授乳が終わると「今飲ませたばっかりだし、少しは時間が空くでしょ」と言ってカフェインがあるほうのインスタントコーヒーで作ってくれた。それはそれは体に沁みた。久しぶりだろうと思ってと同居人は照れ臭そうにしていたが、私は感動とかほっこりというよりもはや娑婆の味って感じすらあった。病院の豪華な入院食にもコーヒーやカフェオレはないし、私がずっとその時間を求めていたことを病院の人は知らない。


カステラをもらったから、と同居人と二人で先日コーヒーを飲んだ。
そのコーヒーも頂き物のドリップコーヒーで、オリジナルブレンドと書かれている。
飲んでみると酸味の強いコーヒーだった。あ、これは、と思うものの、そのあと口に入れたカステラは甘味の強いカステラで、こってりしていた。またコーヒーを飲んでみると、不思議と落ち着いた。甘いものと一緒に飲むコーヒーは酸味がある方がバランスがとれておいしいと感じるようになった。
もちろんこってり甘いものにしっかり深煎りの苦いコーヒーも格別においしくて、夜のこじゃれたお店で食べる冷たいパフェのような禁忌の味がする。なのでそれ一択と思っていたのに、歳をとっただけでおいしいと思う組み合わせが増えていくらしいと思うようになった。飲めるようになったブラックコーヒーも、違いがやっとわかるようになったカフェインレスも、段々おいしくなっていった。

我が子がヨーグルトやトマトのおいしさに気付くのはいつになるのか、顔芸で離乳食を拒否する様を笑いをかみ殺しながら口元へ運んでいる。
どうやったら食べるのかなとぼんやり考えるのも、何かを変えたり生み出したりする生産性のある時間ではなくて、人が成長していくことにちょっと横から邪魔したりお節介をしたりするだけの、私の時間でしかない。


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