星のひかる海を探して

年末にどうしても更新したくて 3日位前からこまめに書き足していってたのですが、あとちょっとのところで下書きが1段階前のものしか残ってませんでした…。(そこからのアップデートが1番大きかった…)

30分くらい立ち直れなかったけど、仕方ないのでまっさら新しく書き直しております…。


年の瀬となりましたが、実は少し前にオフ会(サシですが)をしました。

文章の雰囲気の人どおり、と思いながらお話していたけれど、相手からみた私は色々意外だったようだった。(本物と信じてもらえてよかった)


私はいつも、「私を知らない人しかいないところ」へ行きたかった。

それがたまたま インターネットの世界だった。


小学生から今に至るまで、旅をするようにその当時主流の媒体に乗り移っていた。その媒体がサービスを終了したり、誰かそこからいなくなったりすれば終わるような関係で 毎日のように誰かとやりとりをした。脳の病気で2度倒れたと話していた消防士のおじさんや、引きこもりだったけれどアルバイトを通しておしゃれに、だんだん明るくなっていった無口な女の子を時々思い出す。そんな中でずっと同じく並走して旅をする人もいて、私は私を知らない人たちとの中で、10年以上は存在しているのだ。


「最近はSNSで本当に発言しにくくなった」と、オフ会で互いに深く頷いた。

知られたくないところに知られやすいやりづらさも、知られることはなくても 知らない人が相手がゆえに プレッシャーを感じることも、逆に会うこともない相手だからかきつい言葉をかけられることもあるけれど、いずれもインターネットの海が明るくなったからなのだろう。


昔は良かったとは言いたくないけれど、20年程度でも、良い悪いはさておきそれなりに移り変わりは感じるようになる。

何か炎上するようなことがあったとしても、発信する側の自業自得というか発信側の責任が重い風潮があり、時折 四面楚歌というか、そんな空気を感じる時がある。「これは"こうだったらこう"という意味で」とかなり丁寧に注釈をつける人も多く見かける。そりゃ言われなくてもわかるだろと思うことも、わかるわからないではなくて火があがるかあがらないかが問題なのだろう。

優しくあたたかなやりとりを見かけることも勿論あるし、もちろん以前から燃える時はよく燃えるなあと思うこともあった。ただ、ここは随分光のあたる世界になったのだとは思うようになった。キラキラの火の粉が舞う、逃げ場がないほど整頓された世界に「逃げ場」と銘打たれた箱を置かれても、臆病な私は そこには涙を落とせなかった。


私を誰も知らないところ、知らない人しかいないところへ行きたいと思うことはもう時代に取り残された遺物になっているのかもしれなかった。

この先男だと名乗るかもしれない。女だというかもしれない。今までと違うことを言ったり結婚していると言ったり、未婚だと言ったり、外国に住んでいると言ったりするかもしれない。それは武器がなければこの先 旅を続けられないからだ。私は私でないと偽る方法を選ぶのが下手なのかもしれない。

私は私を誰も知らない世界に怯えることはなかった。星のひかりの遠きあたたかさを感じることができる私でよかったと思えた。綺麗じゃない心は、息をすることで綺麗になれる気がした。それらは形を変えずそこにあるけれど、ただ盾も矛も必要だと思うようになった。本当のことをいって傷つくなら嘘をついていると言われて傷つくほうが、まだ私は私でいられる気がした。


燃え盛る情に追われぬ夜が終わったとき、傷が癒えるようにと息を止めた。そのことはとても怖かった。

星よりも明るく輝く陽だまりの足元に燃え滓が落ちる。この先、小さな私が息をしなくなりませんように。


色とりどりでなくていい。星のひかるあの海を 私はまだ愛している。




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