レオス・ヴィンセント自己催眠法
ウーバーイーツをたまに利用します。
先日、「のり弁」を注文しました。白米の上に、のりがぴしっと乗っています。写真を見るだけでは、その下に「おかか」があるのかはわかりません。ちょっと濃い目の、固まっているところを噛むと歯がギュシッとなるような、あのおかかが敷かれているかどうかは分からない。シュレーディンガーののり弁。
先日、テレビ局であるロケ弁をいただいた時、ご飯の下にものりがあってビビりました。のりバーガー状態です。すご。
そもそも、のり弁というのは、なにか定義があるのでしょうか?「おかか」はその定義に含まれない?そんなの許せないが。
調べてみましょう。
違いますね。そうじゃない。
海苔…おかずなんだ。見くびっていた。
装飾品ではなく仲間でした。ゴーイングメリー号か、麦わらの一味でいうところの。ノリーですね。
で、のり弁が届いたんですが。
掲載されていた写真では白米の雪原に覆いかぶさるように、一枚ピシッと乗っかってたんですが…届いたのり弁は「白米の中央付近に刻みのりをパラパラッと振ったもの」でした。
蕎麦屋に異世界転生した小ライス?
のり弁を頼んだんですよ、僕。
聞いてた話と違うじゃん。
写真と違うじゃん。
これで海苔弁って言っていいの?
「え?海苔入ってますよね?海苔があるんで、『のり弁』ですけど?お客さん?」
見たこともない店主の顔を想像しながら、空(くう)を強めに叩いてしまいました。嘘つき。「海苔弁」だなんて、大げさだ。写真も紛らわしい。うそピョン、コダイ、まぎらワシ。
★私は「カスみたいなのり弁男」に見えているかもしれない
「誇大広告」というのは、良いモノではありません。商品やサービスの情報は正しく伝えないといけない。
商品、といえば…私のような「事務所に所属している放送作家」も、そう。事務所側から見たら、所属作家は商品に近いものがあります。「我が事務所には、こんな作家が在籍しております。こんな実績です。こんな雰囲気です。いかがでしょうか。」と。
細かい話ですが、「知り合いに誘ってもらえた仕事」と、「事務所からもらう仕事」というのは、微妙にニュアンスが異なります。
前者は「髙﨑さん、こんな仕事あるんですけどいかがですか?」
自分のプロフィールやステータスを把握したうえでのオファーです。
しかし後者は違う。まず、クライアントが「こんなプロジェクトがあるんですが、良い作家さんはいませんか?」と事務所へオファーします。そこに事務所側が「でしたら弊社の髙﨑はいかがでしょうか?」という“推薦”のプロセスが挟まれる。自らの価値を、自分のうかがい知れぬところで担保された状態から仕事がスタートする。
それに加えて、事務所はクライアントに対し、仕事量に応じた「ギャラ」を請求します。これは、もちろん高すぎてもダメですが、低すぎてもいけません。見合った金額だからこその「仕事」ですし、その金額も仕事のクオリティの“担保”となります。
満を持して打ち合わせする時、僕は「カスみたいなのり弁が来た」と思われてしまうのではないか…と怖くなる。
“放送作家”という職業に普段関わりのない人、テレビ関係者ではない人の元へ派遣される時は特に。
聞いてた話と違うじゃん。
プロフィールと違うじゃん。
これで作家って言っていいの?
向こうには、そう言う権利があります。
仕事に必要な自信。
「私は、私の名誉とプライドと仕事生命にかけて、私の仕事に胸を張らなくてはいけない」という自らの矜持。
その上に、「うちに頼んだからには下手な仕事はさせませんよ」という事務所側の“面目”が覆いかぶさっている。丸潰れさせるわけにはいかない。
期待であり、責任だ。
そして「期待」も「責任」も重い。
「ひとつの失敗」が自分以外の様々な顔にも泥を塗る。「あんな奴のいる事務所なら、たいしたことないな」と、言われてしまうかもしれない。
社会人としてすべきことと真逆なんですが、なんでも許されるなら僕は「期待しないでください」「成功したらラッキーと思ってください」なんて言いふらしたい。ハードルなんて、低ければ低い方がいいよ、と思ってしまう。
刻みのりです。
刻みのりです。
あっしは味の付いてない刻みのり風情でありやす。
「送り出される」ということへの、贅沢で傲慢な不安がまとわりつきます。
送ってもらえるだけ、ありがたいんですけどね。
自己肯定感の低さは厄介です。
なぜなら、自己肯定感の低さゆえに僕が遠ざけたがる「期待」と「責任」こそが、仕事の本質だろうから。
「米の下にすら、海苔を敷いておりますよ。」
それぐらいのスタンスで、自分にハッタリかましつつ。
やっていかないといけないのです。
★レオス・ヴィンセント自己催眠法
自己肯定感の話。
僕がいま、知る中で最も自己肯定感の高い人物が、バーチャルYouTuberのレオス・ヴィンセントさんです。
「励みになったでしょう私の配信が!」
視聴者にそう言い放つ彼の清々しいまでの「自信」は、僕にはまぶしすぎるし、憧れ。ですが、そのまんま社会に持ち出してもそれはそれで危険なものです。
…とか、リモート会議で言ってるのヤバいですから。
でも、ちょっとずつちょっとずつ、細切れに、粉状にしたレオスさんを摂取していく、憑依させていくのは、精神衛生上とても有意義なことだと思うんです。
「私がいて、良かったでしょう!諸君!」という彼のスタンスが、少しずつ自己肯定感を底上げしてくれているような気がします。
たくさんの経験から学んできたので、私はどんな人相手にだって、「あなたはあなたであるだけで特別なんですよ」と、言える心の準備はできているはずです。それを、ただ鏡に向かって、自分に向かって言ってみるだけ。
だけ、だけど。意外と難しい。
だから少しだけ背中を押してほしい。何かに“成りきる”ことで、その最初の一歩を踏み出せないか。
ので、今年一年間はレオスさんを待ち受けにしてみます。
人に実際に言わないまでも、「私と組めて、あなた幸運ですねぇ」と、心の隅っこの小さな自分に独り言を言わせてみる。
「自己肯定感」と、ヤケにならずに向き合う一年に。してみたい。難しいだろうけど。
成果のほどは、10ヶ月後に…。
★1年半の間、心の中にマッドサイエンティストを飼ってみた結果
※2023/06/18追記
すっかり一年という期間を忘れ、一年半後の報告となります。
結論を言いますと、レギュラー番組が3つ増え、それに伴い年収が増え、作家を志すきっかけとなったアルコ&ピースの冠番組もお手伝いできたし、なんなら好きな「にじさんじ」にまつわる仕事もできました。(構成:YouTube 完全メシ「完全ハイテンSHOW!!」 / 壱百満天原サロメ・サンシャイン池崎)
はい、まぁ…いやはや。。。
効果が、ありすぎたかもしれない。
もちろん、キャラを完全に切り替えたわけでも、語尾や態度を変えたわけでもないですが、日々うっすらと、小さな「自己肯定感の種」を、スマホを見るたびに意識する。
「御社」にも、
「先輩」にも、
「先方」にも、
自分の中でちっちゃく「諸君」というルビを振ってみる。
失敗して悔しい時は、口では「あ、あぁ〜〜!」と情けない声を発しつつも、最後の最後の自分の心の砦は、「これで私、もっと成長しちゃいますねぇ」なんて言って守っていく。
そんな「自分に甘い言葉」も、「自分じゃない声」から発せられたと思い込んでみると、少し言いやすくなるような気がしました。
「心の中の博士に応援させる」というニュアンスともちょっと違う。レオスさんの姿勢とか、性根のフォーマットをちょっとずつ自分にトレースしていくようなイメージでしょうか。
根本は正直、まだまだネガティブだと思います。
そう簡単には変わらない。
ただ、「怪我した時の包帯の巻き方」はちょっと上手くなったのかも。と思いました。
「Q.E.D.!」とカッコよく言うにはまだ早いので、もう少し続けてみようかと思います。
上がってもらって結構です。
お疲れ様でした。
p.s.何度か仕事に寝坊/遅刻してしまったのですが、それとこれとは関係ない、です。ですよね…?はい、反省してます、すみません。
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