いじめ何故起こる?組織においての人間関係の考察
テキストでは_お久しぶりです。
今日は修業?してきた時の話と、その時に考えを巡らせたうちの一つを書き留めておこうと思います。
それが今回のタイトル「組織においての人間関係の考察」です。
さてその話をする前に、なぜそれを考え始めたかを書きたい。
きっかけは友人の地獄の訓練エピソードを聞いた時のことでした笑
富士にある管理者養成学校という激やばの養成施設があるらしく、そこで数十万のカリキュラムを二回受けたらしく。
まあその内容がぶっ飛んでいて「とりあえず罵声を浴びさせられる」「駅前で大声で謎の校歌を歌う」「夜の森を数十キロ歩かされる」とのこと。
え、めっちゃ面白いじゃん。
特に「ポチ小屋」は超行きたい!と早速「訓練コース」を検索してたのですが、今すぐ行きたいという欲求と10泊も泊まれないということで断念。
そこでセルフポチ小屋を決行すべく、2泊3日のお泊りが始まりました。
通称ポチ小屋に挑むには何個か条件があるらしい
・スマホやパソコンは一切禁止
・極力人と話さない
・一日中部屋に籠る(食事の30分だけは外出ok)
・持ち物は紙とペン
そこで近くのビジネスホテルに連泊し、少々の食糧を買い込んで巣篭ることにしてみました。
「いやいや僕はほぼポチ小屋生活ですよ」とお思いの方もいるでしょうが、そんな甘いもんじゃない。一切の娯楽もなく、一切の人と話さず、どこにも行かずただ自分と向き合う。元々ボッチの私は、一切ネットが使えないこと、一冊も本を持って来てはいけないことが苦痛で仕方なかった。
合宿体験記:脳みそウイルスバスターでバグを検出する時間
ホテルについて、先ずは寝る。
前日遅かったということもあったのですが、そもそも狭い所が苦手で(じゃあやるなよ)ずっと不安で仕方なかったので、とにかく寝て不安を紛らわせた。
起きたら今の不安を解消するように何か気に入らない事に八つ当たりしたくなる気になってくる。それらを全部ノートに書き留める
これは終わった後に自宅で撮ったノートの写真だが、大学ノートより2回りくらい大きなノートにびっしり、今思ってることを全部吐き出すように殴り書く。
さながら、ウイルスバスターのようだなと思っていた。
頭に残ったバグを検出し、検証、浄化させる。
そんなプロセスをじっくりやっていた。正直それしかやることがないって位にできることがなかった。
やれることが制限されることが辛い。早く帰って本が読みたい。
勉強したい。知りたいことが沢山あった。本が読みたい。
だが「ウイルスバスター」と形容したこの行為が、なんとなくしっくりきていた。ここでウイルスを検出していかないとメモリに負荷がかかり、処理が遅くなると想像すると、この引き籠り生活がとても重要な事柄に思えてくる。
10ページほど書いたところで、段々とフレッシュなアイデアや思考の巡りが頭に浮かんでくるようになった。
小説を書いてみたり、行きもしないシチュエーションでのスピーチを考えてみたり、レシピを載せてみたり。
その中で、人間関係についてまとめた内容をここにまとめておきます(ようやく本編)
組織において各人に与えられた配役
まず、組織が人を評価する際、人員それぞれのステータスパラメータを考察することが重要となってくる。
ステータス項目を7つに分解してみた。
「組織」とは各人がこのステータスを抱えて集結している状態。組織側は集まったメンバーのステータスから特定の数値が高い順に役を配置する。
よく言われるのはパレードの法則(上位2割が8割の売上をあげる)や2:6:2(超がんばる人:普通:サボる人)ですが、この「2割の役」として配役されるなどを決定するのがこのステータスである。
あるいは役職を決定するためのステータスでもある。社長は愛嬌と論理思考力が一定数必要であるとか、この社長なら右腕はこうゆう配役になるとか。
つまり組織においては、ステータスによって自分がどう立ち振る舞うかを決定させてしまうということ。ある程度「やる気」とか「実績」もあるだろうが、それが重視されるのは初めだけだと思っています。
配役があなたに「言わせている」
なぜわざわざ「配役」という言葉を使ったかといえば、まるでドラマの俳優のように、与えられた役には一定の台詞が用意されているからです。
例えば社長が間違った提案をした時に「間違ってます」と言う台詞が用意されている。同僚が功績をあげた時に、賞賛する台詞がある人と、多少妬みを吐露する役(自身を奮い立たせるための台詞)がある。
立場的な台詞が誰しもある。
そうさせているのは、配役を与えられた際に特定の視点も与えられるので、その視野から見える世界で物事を判断するからである。
ここで重要なのは、その人の本質的な人格とは関係なく台詞が与えられてるという点です。実際その台詞を言う言わないなどは個人差ですが、その配役の台詞と人格は別物だと考えるべきである。
嫌な台詞を言わなければならない時は必ずある
立場上、言いたくないことを言わなければいけないことは沢山あるでしょう。この感覚が職業的な役職という枠を超えているのではないか。
例えば仲のいい友達同士。役職なんて堅苦しいものはないけど、仲間としてつるむとそれぞれに「キャラ」として配役が与えられている。
この「配役」「台詞」と「人格」と切り離して考えると組織における人間関係って凄くスムーズに運ぶのではないだろうか。
切り離すという感覚は、例としていじめを引き合いにだしていこう。
いじめは学校が産んでいる
社会問題にまでなっているいじめ問題。
ここまで広範囲に、珍しくない数で問題視されているということは、誰か特定の人格を疑うのはセンスが悪いわけです。
調べていくと、いじめは70年代後半からあったと推定され、初期では暴力事件が表にでていたので軽視されていたとのこと。そして複数の「いじめ関係モデル」が作れてしまう程にテンプレート化されていること。
これを考えていくと、いじめとは特定の誰かが悪いとは言い難く、むしろ組織形態に要因があるのだということに至ります。
すると、組織が配役を保有し、配役ごとにある程度の台詞が与えられているということ。そして台詞と人格は切り離して考えても良いという考察ができるのではないでしょうか。
まあ、とはいえ、学校教育の在り方を変えたいという熱意は残念ながら私にはなく、それは本当に熱意ある人に任せるとして。
直近で誰でもできる対処法だけ載せていじめの話は終わろうと思います。
この配役理論をいじめ問題に宛がうとするならば、まず生徒それぞれがこの配役理論を理解し体験することが重要となります。
学校以外の幅広い年齢層のコミュニティ(習い事・サークル・オンラインサロンなど)に加入し、自分の配役が組織によって変化するという体験をしておくことでしょう。
(なぜ年齢というと、その方が与えられる配役が学校と大きく違う可能性が高いからです)
人は配役で人を嫌い、人格は否定できない
特に他人を嫌いになる時は、およそ自分と同じ組織に属する者(関係が近い組織に属する者)のことを嫌いになります。
どんなに極悪非道な行いでも、ヒトラーについて当事者と同じくらい非難することは難しいでしょう。
多少の好みはあるだろうが、本当に目につく時とは「配役としての自分」がそうさせているということ。
そもそも私は、できるなら人を嫌いたくないと思っています。そうゆう思いと奥底に眠ってる葛藤が、今回こういった考察をさせたのでしょう。
私は人を嫌いたくない。だけど嫌われたり、私もちょっと誰かの言動が目についてしまう時だってある。だけどいつも思っていたのは、その人の行動が自分にとって嫌なだけで、人格は絶対に否定しないということでした。
それを今回言語化してみたことで咀嚼しきれた感覚があります。
おまけ:私のステータス
私は割とまんべんなくスキルをあげてきたつもりでした。それは意識してそうしていたように思います。私の初期値(青)というのはアンバランスで、しかし年齢や経験と共に「鍛えた」と思っています。
しかし一つ、解析力が弱かったんだなというのが今回の発見でした。そもそも他人にあまり興味がなかったので解析してこなかったように思います。
この解析力が欠けていたので、私は時折人間関係について悩んでいたんだと思います。相手のステータスがわからず、今どんな環境にいて、今どうゆうタイプと会話してるのかが見えてないので、同じ行動をとっても「なぜか上手くいかない時」と「なぜか超評価される時」の差が激しかったんです。
自分が改めて、どうゆう能力を持っているのか、あるいは相手がどうゆう素質を持っているのか、どうゆう環境(組織)の特徴を保有しているのか。
この意識こそ、組織における人間関係を円滑にする方法ではないかと考えました。さらにいじめ問題で例えたように、それは人格そのものを否定する必要がなく、むやみに誰かを嫌いにならなくて済むという安心感を与えてくれました。
そうゆう、優しい世界になったらいいな。
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