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日本の皆様、オリンピックおめでとうございます。

もうすぐ、オリンピックが開催されますね。疫病禍での延期に、更には無観客措置という厳しい状況ながら、無事開催にこぎつけられたことは、非常に素晴らしいことだと思います。
本当に大会開催のためにこれまで尽力されてきた皆様。会場を建設してきた皆様、この大会に出場をする選手の方々、大会会場で運営警備や設営に携わる皆様、そして何よりも開催都市東京のある日本の皆様と、開催国という大役を任された日本人の皆様、本当におめでとうございます。

さて、本日7月17日から見て数日前から、この大会の開会式での楽曲担当となった方の、過去の言動や行動に関して、大きな騒動になっていると聞きました。皆様はどのような騒動かご存じでしょうか。
私は担当となった作曲者の方が、過去に学生時代に行ってきた行動、そしてミュージシャンとしての雑誌等での言動、これが社会的に許容されることではないゆえに、音楽演出担当の変更と、現担当の降板を強く願っている方が多くいらっしゃると聞きました。
しかしその降板を要求する声の中に、本人の人間性や、現在でも音楽家として活動していることにすら、糾弾して、本人の法的処罰や、当人を起用することに関して、起用した人の名誉すら毀損するような方も見受けられたことは非常に私にとっては見苦しいものでもありました。

この祝賀で盛り上がるはずのおめでたい日本の方々は、この祭典をを祝うよりも、祭典を執り行う人々に対して大きく怒っているのでしょうか。確かにお祝いのムードを壊されたのでしたら、怒りを覚えることは仕方ないことなのかもしれません。
しかしながら、その怒りを覚えたからと言って、確かに担当の方が過去に悪い行為や言動をしたからと言って、それと同様に強い言動や卑劣な表現で本人やその起用に携わった人を責めてもよいのでしょうか。その言動は当人が犯した罪と同等になってやしないでしょうか。私は不安に感じます。

この多くの人々が生活に苦しむ中で、過去に誰かをひどく苦しませた人は、今やってることすらも否定されなければならないことなのでしょうか。更には生きていることですらも否定されなければならないのでしょうか。そのようなことを判断できるには、現代の日本では法曹の方々だけとお聞きしているのですが、法曹でもない、ましてやその担当者とは人生に直接かかわることのない人たちが、勝手な裁きをしてよいのでしょうか。
そもそも、こんな人々が生活に苦しんでいる時に、お祝い事などやっていいものなのでしょうか。それは私にはわかりません。しかしおめでたいはずだった日本の人々は、お祝いをすることよりも、素性も大して知らない個人に言葉の暴力を振るうことが楽しみみたいですね。それはたいそうに心が苦しいでしょう。

さて、そんな私もおめでたい日本に住む日本人の一人なのですが、日本や日本人がこのような調子であることに、少しばかり寂しさと悲しみを感じております。日本という国籍や民族、そしてその象徴である国旗や国家を持つことが、少しばかりではなく不必要だと感じるようになりました。
担当者の方は、今後何かに起用されるたびに、多かれ少なかれ、過去の過ちについて言及されることではあるでしょう。私もそれは認められるべきでなく、許されざる行為だと私は思います。
しかしながら、彼がこれからも何かのたびに、このことは話題となり、追求されることもあるでしょう。そのたびに、私たちは彼の行為の軽薄さと卑劣さを学んで、彼のような行為をしない方を心がけるしかないのです。そしてそれが彼の断罪にもなるでしょう。

さて、担当者が仕事を引き受け、この騒ぎになっても辞退しなかったことは、私は肯定も否定もできません。しかしながら、仕事を引き受けることによって、過去を問い詰められることは承知の上であったでしょう。それ故に、私はその活躍は応援するつもりであります。
おそらくここ数日だけではなく、オリンピック開会式の日やパラリンピック開会式の日にも、彼の名前は世界に轟き、その悪名すらも世界に轟くでしょう。そしてその罪を責められることでしょう。これは仕方ないことであると感じます。
最早、私たちにできる事は、彼の過ちから学んで、同じ過ちを起こさない事以外にはないでしょう。彼を執拗に攻めたところで、同じ過ちが繰り返されるだけだと、私は寂しく思います。

この件について、彼や彼を起用した大会組織執拗に批判し、自己の正義と潔白を主張する音楽家や芸術家があるとすれば、私は恥を知れと強く言いたいです。自己を高めるために他人を引き摺り下ろす、非常に愚かな行為に溺れてしまった事を自覚しろと、私は訴えたいです。
世間の論調と一緒でいたい、世間の論調の上に立ちたい、そのような欲求は、彼がした過ちと何が違うのでしょうか。そしてそれに気付くのが少しでも遅くなればなるほど、その正義に立とうとした行為の過ちは、自らを苦しめる大きな爆弾ともなりうる事に、はやく気づいてもらいたいです。あなたの素晴らしい芸術が、くだらない社会的な評価によって穢される前に。

そんな私は、昨今の疫病禍よりも前から、私の好きな趣味が疫病禍で中断することや、たくさんの人が来ることで日常が乱される事、そして現代日本の政界財界を支配する層の少年時代に見た夢の再現に付き合わされる事が嫌で、いつのまにか賛成から反対へとオリンピックに関して意見が変わっていました。
それ故に、私はどうしても何か今回の五輪に大きく期待することも、強く非難する事も、私には言えたことではないと思っていました。むしろ、私は蚊帳の外で、小さな疎外感に対して優越に浸りながら、賛否に熱狂する人々を眺めていればいいとすら思っていました。
とはいえ、私の意見は私怨です。正義などどこにもありません。だからこそ、昨年の疫病が流行ってからというもの、反対する事が最大の正義たるような、一連の社会的な動きに対しては、同じ反対派としてはすごく居心地が悪いようにはなっていました。
そして、その正義のいく先は、引き受けた内情すらわからない個人の攻撃になってしまったこと、それが賛成派も加担する、国民たる正義となってしまったことになってしまった気がします。そんな事によって、日本という国に住む事、日本人であるという国籍や民族である事、その社会で生きる事が、とても恥ずかしく思えて、捨てたいものになったのが2021年7月17日の今日であります。

しかしながら、紆余曲折ありながらも、オリンピックが開催されそうであることは、大会関係者の苦労も考えると、喜ばしい事には間違いないと感じます。

日本に住む皆さま、日本人の皆さま、2020東京オリンピック、開催おめでとうございます。

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