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日本で生まれ育った20歳女の感じる生きづらさ

日本人として日本に生まれ、20年間経った。そんな私には年々膨らんでいる感情がある。その感情は一言では表せない複雑なもので、ポジティブなものというよりは暗く、苦しく、悲しいもの。

大学1年生のとき、初めてメイクをした。高校までは禁止だったので。私服で毎日登校するのも初めてだった。そんな生活の中で私は少しずつ自分の容姿を気にするようになっていった。

メイクはYoutubeの動画で学んだ。ファッションはティーン系の雑誌やインスタグラムの投稿を真似した。少しずつ自分の中に「標準的な美的感覚」がインプットされていった。

「標準的な美的感覚」で自分を見ると、私は美しくなかった。褐色めの肌、きつい目つき、濃い眉毛、小ぶりな鼻、高い頬骨、広い肩幅、、今まで自分では長所と思っていたこと、人から褒められて気に入っていた場所が呪いをかけられたかのように全てコンプレックスに変貌した。

それから私は「美しくなるため」に日中の外出は避け、美白点滴に通い、食事は一日500キロカロリー以内にし、メイクをさらに研究した。美容整形のカウンセリングにも行った。ここまで読んで、「なんて単純なやつなんだ」「なんでそれくらいのことでそこまで追い詰められるんだ」と思っている方がいれば、一つ言っておきたい。少なくとも今の日本で、このような経験を一度たりとも経ずに自分を常に愛し、ハッピーに生きてきた女性はほとんどいないと思う。これは特別な経験ではない。あなたの思いの外一般的な経験だ(良い悪いは別として)。

ただ、少しずつ肌が白くなり、体重が減っても自分の見た目に満足することはなかった。むしろコンプレックスはどんどん強まっていく。まさに呪いだった。苦しかった。みんなどこかしら可愛いポイントがあるのに、自分は全てが気持ちの悪い醜悪な人間だと信じていた。そして1年が経ち2年生になる前の春休み、私はカナダに1ヶ月間短期留学をした。そこで価値観がひっくり返った。

肌が黒い人、太っている人、肌が荒れている人、、今まで私が「美しくない」とみなしていた特徴を持っている人々が、まるで自分がとんでもない美女かのように振舞っていた。最初はただただ圧倒されていたが、次第にそれは自信からくる美しさなのではないか、と思うようになっていった。そしてそんな人々に囲まれて生活する中、私もまるで自信に満ち溢れているかのような振る舞いをするにつれて、本当に自分に自信がついてくるのを実感した。「私は完璧ではないかもしれないが、十分魅力的で、愛される価値がある」と心から信じることができた。

1ヶ月後、日本に帰国。そしてまたいつも通りの日常に戻ったのだが、私は自分自身の中でとてもおかしな変化が起きるのを感じた。自信がみるみる失われていくのだ。カナダでの生活で自分に満ち溢れていた自信が、日本での生活が重なるほど、まるで幻だったかのように消えていった。

さて、少し話が変わるが「プラスサイズモデル」という新しいモデルの在り方をご存知だろうか。従来の美の枠にとらわれない、とても現代的な価値観だと思うのだが、とある有名なプラスサイズモデルが出演しているYouTube動画のコメント欄はこんな言葉であふれていた。

「外国人だから魅力的に見える。これを日本人がやったら悲惨」
「向こうの人っていくら太っても顔に肉つかないから良いよね」
「デブが正当化されているだけでは?」

私はこのコメント欄を見たとき、ここに私が日本で自信を失った理由が集約されているように感じた。いくら自分自身が変わっても、周りの目がそれを許してくれない。それを払いのけられるほどの強さを、私はまだ持ち合わせていない。そもそも私が得ることのできた自信だって、カナダで出会った魅力あふれる人々の影響を受けてはじめて自分に備わったものだ。

日本に帰ってきてから1年以上たった今でも、私はこの二つの価値観の間でもがいている。かつて一度手にした自信と近いものを、何かのきっかけで手に入れたことは何度かあった。しかしそのたびに、「日本で評価されないから逃げているだけではないか」「こんな風に自分の醜さから逃げているから、誰からも愛されない」などと、再び呪いが発動する。

この苦しさの出口はまだ見えないが、来年からまたカナダに留学することが決まったので、自分にとって良い変化があれば良いなと願っている。見た目や美しさに関する悩みは、一見とても浅はかなものに思われがちだが、その本質を突き詰めていくとかなり根の深い問題だとわかる。今後何か変化があるたびに、ここに残していきたい。

最後に、同じような悩みを抱えている人、見た目や美しさについて苦しさや生きづらさを感じている全ての人が、どんな形であれ幸せになることを心から願っている。


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