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なぜnoteを始めたのか

内向的で繊細だからといって良い人ではない。

およそ1年9か月前、私はロシアのウクライナ侵攻が起きてから日々流れるニュースと情報に翻弄され、憎悪溢れる言葉や偏見、目を背けたくなる写真や映像に思考の波がオーバーフロウし心が打ちのめされていた。
自分の思考をまとめて誰にもわからない形で発信すれば、誰か一人でも見てくれていると感じることができその感情が少しでも軽くなるのではと思ったのがnoteを開いたきっかけだ。
(しかし結果的に私がこの2年間に書いた大半の日記やエッセイは余りにも個人的な内容が多く載せられなかった。)

当時私はマレーシアに来て間もなく親しい人が誰も居らず、自分の繊細すぎる性格が故に絶望的感情と鬱状態にあることを周りに悟られないように振る舞う事に必死だった。
そんなとき始めたのが、自分の感情や思考を全てメモに書き出してからエッセイや短編、詩にして吐き出すということだった。

世の中の理不尽な出来事や事件が起こると、私は自分の思考の渦と感情のコントロールが出来なくなり、全ての情報や音に圧倒されて何日間も悲しみの底から抜け出せなくなることがある。
しかし私はその被害者や事件の当事者で無いので、まるで自分が彼らの境遇を理解したつもりになって悲観的になることを楽しんでいるのではないかと考えてしまい自己嫌悪に陥る。

大袈裟に聞こえるかもしれないが自分にはとても大きな悩みで、この事を他人に話しても「いつも考えすぎ」「優しすぎだって(笑)」「もっと良いニュースだけ見なよ」などと言われて一蹴されるだけだった。
それは大半の人にとっての事実だが、自己嫌悪に陥るほど悩んでいることを優しすぎるからという理由で片付けられると、私には理解できない未熟な者だと小馬鹿にしているのと同じ意味だ。優しいと気を配るは別の話で、後者は継続的な興味と献身と犠牲精神を伴う。なので、気づかれなくても好きな人のために気を配ることは出来るが、それは大きなリスクと疲労を要するものであり'優しいから何時も当たり前にできる'わけではない。
内向的・内省的人間を無意識に見下している、だから一部の人は”優しくて繊細で内向的な人”と友人になりたがるのだ。
また勘違いされやすいが、従来私の自己肯定感はそれなりに高いし性格は自分本位で我儘だ。
繊細的な性格は私の本来の性格とは真逆の印象を与えやすい。それが根っからのお人好しで人に流されやすく、感情に素直で表面的な操られやすい人間という印象をもたらす。

ウォールマリア崩壊と後悔

個人的な話になる。

そんな風に悲観的な感情と自分の抱えている問題をひた隠しにしていた時。人生で初めて私の境遇や経験を自分の経験や感情と比較することなく、私の声をありのままに聞いてくれた人がいた。

個人的な問題、友人関係での問題、秘密、密かに傷ついていること、体調や健康面での不安なこと、不幸なニュース、嫉妬といやがらせ、トラウマのフラッシュバック。ありとあらゆるストレスが一度に襲ってきた時があり、これ以上抱え込むくらいなら誰にも言わずに逃げようか。
そんな時に、魔法使いのように現れて私の不安を感じ取り、正面から目をしっかりと見つめてくれた。
迷いのない本心を映す時の視線は、とても意思が明確で心強いものである。
高感受性直感思考型人間の私は、思わずその人を信用したいと思ってしまった。
この人は現時点で興味があるから私に自己開示をさせたいだけだと知っていたが、この瞬間だけは本心からの優しさと心配から行動していると伝わったからだ。
そして言った本人はすっかり忘れていると思うが、当時は本当に弱っていたものでうっかり特大級の甘い言葉に心のウォール・マリアは陥落してしまったのである。
”I don't know what you are holding, but I will not leave you here until you rely on me. I know you don't want to open up to me because we can not stay together forever, but I want you to trust me. Don't live alone.”
どう?とても素敵でしょう? 
結果的にまあ、抱えている事情の五分の二くらい話してしまった。それが運の尽きだった。
弱みを見せた後に受け入れられると、その後傷くことも疎遠になる事も分かっていようがその人を信頼し頼る以外の選択肢がなくなるのだから。
さらに他に話せる人も弱みを見せられる人もいないとなると、大切にしたい人に負荷をかけざるを得なくなる状況に自分自身が許せなくなる。
それが今まで保ってきた極度の自立マインドと自己肯定感を大きく揺らがせる。

心を開いた瞬間に崩壊の兆しを感じてしまう、自分の価値がなくなると恐れ、その人がいなくなる事を恐怖に感じながらより慎重になってしまう。
お察しの通り、脳みその中は地獄絵図である。考えすぎてオーバーヒートが続いた結果、健康状態もどんどん悪化した。
この素敵な魔法使いには心から感謝しているし心底大きな愛情を持っているが、正直恨んでいる。
この日本語のエッセイを翻訳してまで読んでいるとは思えないが、もし読んでいたらくそくらえだと言いたい。(その理由は本人が一番わかっているはず。)

つまり被害者面したいってことでしょ、と思っているあなたへ

共感性が高すぎるというのは、決して視野を広く物事を見舞わせるという事でも、他人のために行動しているという意味でもない。人間関係においても、他人の感情の機微や変化を常に察してしまう。
ときにその感情の正体はわからなくても、遺伝子レベルや匂いで何か変だということがわかるのだ(まじで)。
そして誰かの行動原理や発言がその人の出す感情と矛盾していたり、不愉快な感情を隠すため自身の行動を他人の行動の因果関係だと正当化されるとてつもない不快感に襲われる。
特にこのようなことが親しい人たちの間で定期的に長期間にわたって行われると、あらゆる感情の機微に敏感になりすぎて、自分の置かれた環境や俯瞰的な人間関係との接点を失いがちになる。

それどころか、その時々に自分に向けられるネガティブな感情の波や自分自身の感情をコントロールすることに忙しくなり手いっぱいになった結果、特定の人物や問題に対する思考を占拠されるのだ。
そして、彼らの一貫性のない言動に翻弄されるうちに、自分自身の感情も知らず知らずのうちにすり減り、”最初の頃の優しくて思いやりのあるいい子”を維持できなくなってしまう。

「あの子は本当に優しくて、その場のみんなに気を配っているよね。」
「あの子は怒らないから大丈夫」
「私が何をしても受け入れてくれるのはあなただけ。」
「私はあなたを信用してる。わたしの辛いことを共有した仲なんだから、なんでも包み隠さずはなしてよ」
「どうして前みたいに振る舞ってくれないの、私のことなんてどうでもいいくせに」
「態度が変わるなんて思ってなかった、偽善者だ」
そんなことは自分が一番わかっている。自分が望んでいなくてもその人のことを信用したり一生関わることが出来る人間だと見なすことが出来なくなってしまうのだ。

なぜなら、彼らが私の苦しみに気付く前からずっと、私は望まれている姿を維持することに必死だから。
全員の感情を読み取って平和的に”あなたの望む優しくて懐が広く愛情深い友人”でいることは不可能だ。
好きな人たちのためなら、見えないところで努力することも、つらい言葉を聞き続けることも、全て起きていることを知って受けいれることも、嘘をつかれても、馬鹿にされても、彼らの問題に可能な限り寄り添うことも厭わない。
しかし感情は摩耗し続ける。
同時にそういう経緯があるほど、自己開示をする事をかたくなに拒否してしまう。
彼らにとって私の存在は代替可能であり、一時の中で一番都合がいい要素を持つという意味での”仲良くしたい友人”に過ぎないということを、彼らと過ごし見てきた経験から察してしまうからだ。
私自身を見ていないし、私の人生の一部になる気がない。
その事実に気付き密かに傷つき続けるたびに、一定の限界値を超えた後もずっと同じ姿でいようと努めるが、自身の感情や表情は以前ほどコントロールできなくなる。 
お願いだから早く気づいて。

さらに悪化するのは、その姿をみた彼らが自身の矛盾した行動を私が”変わってしまったから”だと非難するとき。
自分が感じてきたことと行動は直接論理づけることは出来ない。しかし、感情なしに行動出来ないということを人は忘れてしまう。
彼らにとって”思いやりのないあなた”は、”私を思いやってくれないあなた”を指す。
彼らにとって”前までの優しく理解と共感力の高いあなた”は、”不都合なことに気付かないがなんでも言うことを聞いてくれるignorantでinnocentなあなた”を指す。
どれだけ捧げてきたことも我慢してきたことも、結局誤解された上に理解もされずに傷ついて終わるだけだった。
私が何をしても元からそういう性格だから優しくてと当たり前に受け止められるだけで、私自身が葛藤や思考の波におぼれて苦しんでいることにも、努力してきたことも理解してもらえない。
なぜならそれは”考えすぎの繊細過ぎる人間が、感情的になってガスライティングをしている”と受け止められるからだ。
それなら誰も関わらないでほしいと心の壁を高くしても、数年おきに似たようなことを繰り返すだけ。
我ながらまったくかわいげのない面倒な性格である。誰よりも矛盾しているのは自分だ。

Take Away

私のように他人の感情や環境に敏感に共感してしまうことに悩んでいる人が他にも存在していることをこの2年で知った。
大抵の人はツイッターやブログなど、テキストベースのコミュニケーションツールを使って日々流動的に押し流される思考や感情を匿名で吐き出していた。彼らもまた、現実世界では自分の弱さや体系化した思考を表現することに苦労しているのだろう。
しかし私は既に、いくら匿名で自分の感情と思考を表現し続けても、現実世界の中で私自身を偏見と理解の垣根を越えて絶対的に受け入れてくれる存在がいない限り、自己理解と自己承認欲求を完全に満たすことは出来ないだろうと理解している。

最初の投稿からおよそ2年の時を経てnoteを再開したのは、そんな自分を変えて自己表現と自己開示の開放性を高めることを目的としているからだ。
だから一部の友人にこのアカウントの存在を知られてもかまわないと思った。
正直、私の理解を超えて私自身の存在を肯定し受け入れてくる人間なんて言うのはそう見つかるものではないと思う。(親からの愛は無条件だが親ゆえの子供への盲目性や期待感がある。親友間の愛は相互的共感と肯定が根底にあるが、互いの人生と優先順位を一番に尊重しているから成り立つものだ。)

つまるところ私は日々溢れ出る思考と感情の解放路としてこのように乱雑なエッセイを書くのである。

(4501 words)

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