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世間と私

ある人がこの世を去った。
左を見ればあの人の温もりが、右を見れば亡骸が。
私はまだ「生きる」事に執着をしているのだろう。
自傷行為もしないし、誰かに依存する訳でもない。
ただ自身の夢と現実との狭間で苦しむ、
その癖が付いたのはいつからだろう。
また持病が増えてしまうな。なんて思いながら
MED, Blu, & Madlibの「Drive in」を聴く。
エモラップの人間は悲しくも死と隣り合わせだと
体感的に思う。死なないよと言った彼は静かに亡くなったし、辛そうだったあの人は今どこにいるか分からない。現実を自分で突き付けることを私はする。それが私の自傷行為であり、彼らへの祈りを捧げるそんな真反対にありそうな行為を私はしているのだ。
暗闇には光も何もなく、あるのはフォアグラ化した
理想だけ。次の電車はまだ来ないようだ。
眠って誤魔化せ、とあの人は言った。
でもそれは現実逃避を進めているだけなのではないか、と私は思っていた。それは違う。
それはある種の生きにくい私達への救いなのだ。

誰に愛を請おうか、いや、そんな期待はしない。
したくない。それはただ依存症になるだけだからだ。
M女の時は、その時のご主人様にメンタルケアをしてもらったっけ。よく泣いていたっけ。と思い出す。
それだけ私はその人を神々しくみていたのだった。
しかし人間関係というのは儚くも脆いもの。
ついていけなくなった私は遂にその縁を切った。
これはSMじゃない、これはただの暴力だ。と。
ある種目を覚ました時だった。あのまま目を覚まさなければ良かったのかもしれない。なんてたまに思う。
今考えればそれは不正解な訳だから良いのだけれど。
渇望、底なし沼のようなそれは酷く甘美で耽美的だ。
谷崎潤一郎の「春琴抄」のように。
私はそこからSM断ちをした。
しかしそれをした瞬間、私は改めて情緒不安定になったのである。頼る人はいない、愛する人が居ない、自身で全てを決めないといけない。
頭を空っぽに生きていた私は、混乱していた。
酷く醜い3年間だったと思う。緊急入院も4回もした。担当医は私を見る度に、どうか死なないで。
そんな目線を私に配る。分かっている。
分かっているのだ。今の環境はとても生きやすい。
しかしそれ以上に希死念慮が私を覆う。
もう何もかも何もかもリセットしたい。
でも今を乗り越えられなかったら…?
この世の終わりではないだろうか。
これだけ甘えさせてもらって、我儘を言って、
泣き喚いて。独り言を言った時必ず彼らは私を
優しく包み込んでくれる。
何も言わずただ泣く私を横目に、ウィスキーのロックを飲む。それが彼らなりの抱擁なのだ。
泣き喚いた後彼らは必ず線香と音楽を用意する。
線香の匂いは菫の香りがして、落ち着く。
これが嫌にならないようにと彼らは、一旦線香を消すのだ。音楽もジャンルを180度変えて。
いつかこんな事が笑顔で聞けるようになるのだろうか。いや、なるに決まっている。
私は二足歩行に己の期待を掛けて、
今日も布団に包まる。彼らの鎮魂を願って。


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