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はじまりはデリシャス (短編小説)

 名前を呼ばれた気がして目を開けると、父がいた。父の周りには知らない顔が、10……20はある気がする。ぼんやりした視界が、徐々にクリアになっていくのを追いかけるように、胸の音が大きくなっていく。私は、ハンモックの上にいた。

「具合悪い?」父の声。
「いや全然」
「疲れた? 眠たい?」
 視線の先にはやはり父の顔があった。覗き込むことばに私は答えた。
「いや元気だけど。どういうこと?」
「こっちが聞きたいんだけど」
 父はそう言うと、続けて「皆さん、お騒がせしました。何でもありません。もうめでたしめでたし。ハッピーです。すみませんでした」と、右を見てはおじぎ、左を見てはおじぎ、何度もぺこぺこ頭を下げていた。
「あんたねぇ……」
 眉間に皺を寄せて、口を横に開く。私がよく見る父の顔。父は、困ったように笑う。今日も、困らせて笑わせた、かもしれない。そんなことを思いながら、目の前に差し出された手を掴み、揺れるハンモックから足を地に着けた。
 人が行き交うショッピングモール。私は、まだクリアになりきれていない頭で、周りを見渡した。定番のクリスマスソングが流れている。館内は色と光で溢れていた。
 父が、お店の人らしき人と話をしている。遠目からでも、笑っているのが分かった。ツリーのそばにある時計が、16時を指していた。息をのんで、いち、に、さん、数えている途中で分針が動いたのを確認すると、一気に目が覚めた。少なく見積っても1時間。お店の商品であるハンモックに寝ていたことを理解した。
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 申し訳ありませんでした」
「走らない、走らない」と父が言う。お店の方は、目を垂らし微笑んでいた。店を出てすぐ、本当に大丈夫? という父に、親指を立てて、ぐぅとして見せた。外に出ると、雪が小さく降っていた。


「樹里ちゃんって、サザエさんみたい」
 家に帰ると、妹の春が来ていた。父がさっき起きたことを話している。私はキッチンからふたりの会話を聞いていた。
―― ピンポンパンポーン♪ ご来店中のお客様にお知らせします。白のダウンジャケットに黒いロングスカート、黒髪にカーキ色のニット帽をお召しになった女性の方のお連れ様はいらっしゃいますでしょうか。お心当たりのあるお客様は、1階、インテリアショップサークルへお越しくださいませ。ピンポンパンポーン♪ ――
 父と買い物に行っていた。ふたりだけで行くのはいつ以来か、考えてみたが記憶にない。おそらく、はじめてだったのだろう。アナウンスを真似る父の声に、春の笑い声が重なった。
「電話も繋がらないし、あと1周まわっていなかったら帰ろうとしてたんだよ。そしたら、アナウンスが流れてきて。まさかとやっぱり。あんたってホント面白いね」
「でもさ、なんでお店の人、起こさなかったんだろう」
「相当気持ちよさそうに寝てた? それか、逆にうなされてたとか。分からないけど、お連れ様がいてよかったですとは言われたよ」
「本当だ! 樹里ちゃん、あそこのショッピングモールに行くときは、ひとりで行かないように」
「もうそんなことしないって」と言いながら、私はサザエさんを思い浮かべていた。
「そんなことするのが、樹里ちゃんだから」
 ふたりの笑い声に、私の声が混ざる。安心とくつろぎ、ひとつにまとまっていく不思議な感覚。スープに入った具材が、コトコトと煮込まれて馴染んでゆくように。
 

 父と私と妹。自然と「食卓を囲む」構造になる円卓が好きだ。一度出た家に戻った私は、2ヶ月前からまた父と暮らしている。小さな雑貨屋を営んでいる妹は、近くに住んでいて、店が落ち着いている日は、こうやってふらっと遊びに来る。
「でも、具合悪くなったわけじゃなくてよかった」父がぽつりと言った。
「スープ、上手くなったね。美味しいよ」春が、お皿に顔を近づけている。
 オレンジ色の鍋いっぱいに、生姜が入った鶏団子と白菜、春雨。母は違ったが、私はスープの素を使う。塩と薄口しょうゆで味を整えたら、仕上げにごま油。お皿に注いだら、最後に小口切りにしておいた青ネギをぱらっと入れて出来あがり。子どもの頃から食べてきたうちの冬の定番。これをデリシャススープと呼ぶ。冬になると、「寒い」と同じくらい口癖のように「デリシャス食べたい」と言った。湯気と一緒に香りを吸い込む。仕上げで入れたごま油が、いつもより多い気がした。うん、あったかい。スープを口に入れると、今日もデリシャスだった。ピンポンパンポーン♪ 父がまた、アナウンスをはじめた。


 夢を見ていた。昼間、ハンモックに揺られながら。差し伸べられた手を掴む夢。あの日のことを今でも夢に見る。
 学校の帰り道、私は石けりをしていた。少し角ばった、自分の靴よりも大きな石を蹴りながら家に帰っていた。どれくらい続けただろう。石が割れた。私は、割れた石を投げた。投げると上の方が割れ凹んで、ハートの形になった。ハートを蹴ると、思いもよらない方向に滑って行った。私はそれを追いかけた。溝に落ちた。ハートをじっと見ていると、私も落ちたくなった。溝からハートを取り上げ、私は溝に入った。頭の上にハートを置き、足を伸ばすとなんだかお風呂に入っている気分になった。いい湯だな、と言ってみた。冷たい夕風を感じながら、あったかいなぁと言った。隣に住むおばさんが、横目で通り過ぎた。いい湯だな。今度は、空に向かって言った。
 しばらくすると、パパの声が聞こえてきて、ハートは地面に投げられた。パパの奥に、母と父が見えた。そのころ私は、父のことをテツさんと呼んでいた。私はテツさんの手を掴んだ。


 父は、母の恋人だった。
 私は、父といる母が好きだった。その小学4年生だった冬の入口の日、家では話し合いが行われていた。話し合いという名のお願い。それは、ノーを言わせない強行なもの。母と私と春は、パパを捨て、父と家族になった。
 あの日、この家で食べたスープ。丸いテーブルは、20年前もここにあった。その冬、毎日のようにデリシャスを作って、私たちは食べた。母は、「デリシャスは心を満たすの」と言いながら、作り方を教えてくれた。デリシャスは時々、覚悟の味がした。1年後、母は死んだ。 
 自分の人生の終わりが近いと知った母は、人生は長さじゃない。と言い、それをできるだけ体現しようとした。その最大の願いが、そばにいたい人と生きる、というすごくシンプルで難しいことだった。周りからは理解されなかった。私も、よかったのか分からないが、今でも母の必死の決断と行動に拍手を送りたくなるときがある。当時、パパの手を振り切った私は、自分が誇らしかった。けれど、母がいなくなり、大人になるにつれて、もしかして大変なことに加担したのかもしれないという思いが影を落とした。私は、家を出た。
 今年、緑が芽吹く4月の終わり頃から、母を思い出すことが増えた。付随するように、この家を思うようになった。私のデリシャスの元は、やはりここにある気がして、2か月前、円卓につき、母になることを告げた。相手は、一緒になれない人だということも。父は困ったように笑い、春は、気持ちよく笑ってくれた。
 

 12月25日。クリスマスがきた。私の中のもうひとつの生命は、外の世界に出てくる準備ができているみたいだ。内側からの蹴りを感じながら散歩をしていると、春からメッセージが届いた。
「時間あったら、店にきて」 
 橋を渡ったところにある春のお店は、小さくてこだわりが詰まっている。レトロな陶器やカラフルなポストカードに絵本、キャンドルやピアスなどのアクセサリーも置いてある。この間は、扉ほどの大きさの魔女の人形があって、これ買う人いるの? と思わず口に出た。
「樹里ちゃん、見てみて。じゃーん」
 店に入ると、魔女がいた場所にはハンモック。それから、ご自由にお眠りくださいという札があった。
「いいでしょ。樹里ちゃんみたいな人もいるかもしれないと閃いたんだ。非売品にするから。天気がいい日は外に設置しても面白いかもね。どんな人が来るだろう」
 横になると、早速寝てるよと春が笑っていた。私は揺れながら、天井から吊るされたサンタの顔を見ていた。わたし達はこれから、どこへ運ばれていくのだろう。

 家に帰ると、父が食事の準備をしていた。
「きたきた」
 インターフォンが鳴り、父が手を止め走った。玄関から戻った父が、手を広げていた。
「じゃーん。樹里、これお父さんからふたりへのプレゼント。いや、春も使うかな」
「親子でやること一緒!」
 私は、ハンモックに包まれながら、デリシャスと言った。


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