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音の無い夜の静けさを

髪をたなびかせる風が暖かく優しくなってきた。春の匂いが鼻の奥をツンとさせる。喪失を意識させる季節が、今年もやって来ている。

新しい季節の始まる予感が体を巡ってゆくけれど、それはすぐにさようならという言葉でかき消されてしまう気がする。また明日、という言葉で会えていた人の記憶もだんだん消えていってしまうのだろうか。

どうしても視界が霞んでしまう、別離と邂逅の間で揺れている波が寄せては引いていくのを感じて、悲しいような嬉しいような戸惑いにも似た気持ちが右往左往している。

永遠と感じている時間ほど一瞬で散ってしまうから、春は痛みと温かさでじんわりと胸の中をかき乱される気持ちになる。初めて一人暮らしを始めた時の、3月の夕方も、誰もかも遠くに行ってしまったような寂しさと、新しい生活への期待感とでざりざりした砂が溶けていくような、そんな記憶が頭の中をゆっくりと巡った。

静かなのに、冷たくもなくただただぬるい風が音もなく止まっているような夜の中で、思い返す。春が過ぎ、夏を終えて、秋を経て、冬を越してきた痛みにずっと寄り添えて来たかどうかを。美しいものを共に美しいと言ってくれる人がそばにいてほしいと願った。そして、その人の手を優しく握ってあげられる強さが欲しいと何度も何度も思った。

雑音も、時計の音も、人の足音も、風が吹く音でさえも、何もいらないと思った。静けさを幸せだと感じられる、春の、この静けさに失いや哀しみを重ねられる優しさがあれば、わたしは生きていけると、ただそれだけを思ってる。

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