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人が生きていることを何が証明できるのか

砂浜を歩いた足跡を後から振り返って見てもすぐに消えてしまって、書いた日記も誰にも読まれることはなくて、ワンピースの背中のチャックを上げ終わってしまったらそれで終わりで、愛し合っても訪れるのは静寂で。

さようならと呟いてもその言葉は宙に煙のように消えてしまっていて。誰かの記憶の中に、最後に見る走馬灯の中に自分が少しでもいてくれてたら、と思うのは傲慢ですか。存在が、確かに実在していることを、地面に映る影だけが確固たるものにしてくれているだけなのでは、と考えるだけ。

ないものがある世界が見たかった、見ることは可能か、視線が交わるその時の熱情だけで生きている実感が欲しい。水の冷たさや頬を触ったときの暖かさ、私が見ている景色が他人が見ている景色と違うこと。誰かに自分が生きていることを知っていて欲しい気もするし、誰も知らなくていい気もするし、その気持ちがかろうじて自分を自分で立たせているという確かさを実感させるのだろうな、と。

落ちた花びらも誰にも気に留められることなく枯れていって、万物は常に変わっていくというけれど、その傷跡を証明できるものは何もないんじゃないか。

私の消滅を何が見届けてくれるか、それがわかるのはきっとずっと先でしょう。ソジーの錯覚に陥ったならば、きっと何にでも変わってしまうかもしれないから、それまではずっと、100年先に同じ場所で会ってくれるという約束を、どうか交わしたいと切に願ってしまうのです。

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