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土曜に「人生」を考える

はじめに

もしこの文章を見ている人がいたら、あなたに聞きたい。なぜあなたは仕事をしているのかと。
今の私にとっては、働くことは食べていくための労働だ。生きるために労働が必要な限り、私は仕事に縛られ続けなくてはならないし、内容がどうであれ、仕事が生に対する積極的な理由になることもない。
最近会社で行っている業務改善の提案も、そうした義務感に対するささやかな抵抗にすぎない。

仕事と労働の変遷

古代ギリシャでは、仕事と労働というのが明確に区別されていたらしい。ざっくり言うと、労働は食料の生産などその日暮らしの活動で、仕事は彫刻・建築物などの後世に残る創作であった。
当時、労働は虚しく無意味であり、仕事こそが人生の価値ある行いだと考えられた。その後ローマ帝国の国教がキリスト教になり、しばらくしてルネッサンスにより古代ギリシャ・ローマの文化が再評価されるまでは、そうした価値観は鳴りを潜めることとなった。
しかし、ルネッサンス後の仕事の価値観は、部分的には古代ローマ的な価値観を残しつつも、徐々に富の増大を目的としたものに変わっていき、数世紀後の資本主義の誕生に繋がっていく。
そして、資本主義という新たな価値体系は、かつての仕事と労働という価値観を根底から変えてしまった。社会のありとあらゆるものは紙幣価値と結び付いて資本となり、我々のあらゆる仕事は物をお金に換える経済活動の一部となった。
このことは、すべてのものと活動が資本価値によって測られるという点で、労働と仕事が一体化してしまったと言い換えることができる。

資本主義という監獄

資本主義社会に生きる人々は、事実上その巨大なシステムの歯車でしかない。資産階級の人間にでもならない限り、人生の大半を仕事という名の労働に費やすことから逃れることはできないのだ。だから、私にとって、年収が1千万だろうと2千万だろうと、人生の大半を労働に費やすことは資本主義の囚人になっているという風にしか思えない。
半強制的にシステムに埋め込まれ、競争させられ、相対的な貧困と富裕の間にマッピングされる。さらに、労働によって消費されるものは時間だけではない。精神的、肉体的にも、我々のもつ人生のリソースはそのシステムによって否応なく削られ続けている。
実際、もし数百年後に労働から開放され自由に生きる人々が今の私達を見たら、暗黒の時代を生きた人々だと思うだろう(我々が封建制度における貧しい庶民を憐れむように)。

新たな"労働力"

しかし、自分の代わりに富を生み出してくれるシステムを作ることができれば、話は別だ。人間が行える生産活動は限られているが、機械によるシステムが生み出す価値、特にITを用いたサービスなどの実体のない価値は、容易にコピーし、分配することができる。
一般的な大手メーカーに比べGAFAなどのIT企業の従業員の数が少ないのも、コンピュータが働くか、人が働くかの違いが寄与しているだろう。例えばトヨタに比べて、Googleの従業員あたり時価総額は20倍弱と大きな開きがある(子会社を含めればより大きな差になるだろう)。

システムの歯車になる

このような事実をもってしても、多くの人はシステムの歯車になることを選ぶ。その方が楽だと思っているからだ。
驚くべきことに、この傾向は学歴問わず見えてくるようだ。彼らは自分で考え何かの結論を出すことに躊躇いがある。
それは私が大学院に行っているときに特に感じた。体感的にだが、学業成績が優秀でも、論文を読み自分で系を組み立てることよりも実験だけしているのが好きだという人が相当数いたように思う。もしくは、研究の成果が分野、コンテキストや発想ではなく実験量に依存すると思っている人もそれなりにいた(もちろん、結果的に実験量が必要になることが大半だ)。
また、予算をコンスタントにとるために長年の研究手法や対象を変えずに研究を行う研究室も多くあった。

日本の研究とシステム

残念ながら、そうしたやり方を続けた研究室は、近年の機械学習や深層学習をはじめとする情報科学の波に飲み込まれつつある。実際、私の専攻である分子生物学分野では、情報科学が進んでいるアメリカや中国に論文の質・量共に圧倒され、日本の研究におけるプレゼンスが急激に低下するという状況が顕著になっている。他の分野の人に聞いても、この傾向は確かにあるようだ。
この衰退の原因は、日本の研究機関が変化の波に乗り遅れたというだけの話ではないように思う。まさしく、システムにやらせるか、自分がシステムの歯車になるかという選択で後者を選び続けたからではないだろうか。

優秀さの弊害

ここからは単なる私の仮説だが、逆説的に、"優秀な"人ほどシステムの歯車になる傾向があると私は考えている。
今までの成功体験や周囲の期待から、自分で何かを達成出来る、達成しなくてはならないと考える。実際にある程度出来てしまうから、自分の思考と行動で完結した作業になる。その結果、属人的な業務が中心となり、ますます重荷が増えていく。

系を作る

私の場合、全くそうではなかったように思う。私は他の人々に比べて記憶力がなく、物覚えも悪く、不器用だ。
学部での実験授業でも、クラスの中でいつも最後まで実験をしているような学生だった(更に言うと失敗してばかりだった)。当時の自分は、誰から見ても研究は向いていないように見えただろう。しかし、実際には大学院では論文を一報執筆し国際誌に出版出来たし、学会で賞をいただくこともできた。特段優れた実績という訳では無いが、平均的な大学院生よりは多くのことを成し遂げられたのだ。
私が思うに、これには大きな要因が一つある。それは、良い研究の所在を自分ではなく系に求めたことである。すなわち、こう考えたのだ。自分の役割は求めたい解を導き出せる系を作ることであって、実際に解を求めることではない。そしてその系は、過去の研究の知見、手法や、データから構築されるものだと。だから私は多くの論文から考え方を吸収し理解しようとしたし、データを正しく理解するための方法論を学ぼうとした。
これらはすべて私の頭の中で完結するものではなく、むしろレゴブロックを組み立てて外から眺めるようなものであった。

現状

話を戻そう。現在、私は一労働者として企業で働いている。労働の対価として賃金を貰い、そのお金で生きている。すなわち求められているものは労働だ。仮に今の業務を一部システムに任せることが出来たとしても、また新たな業務が待っているだけである。
しかしそれでも、システムに任せられるような業務に時間を費やすことに納得が出来ず、なんとか業務標準化が出来ないかと悪戦苦闘している。どうせ労働に多くの時間を費やすのなら、自分が納得できる作業に時間を充てた方がマシだからだ。おまけに単価も高くなる。

今後

しかし、今後の人生のことを考えると暗澹たる気持ちになる。
資本主義に囚われていることに加えて、私は世間一般に言う無能である。このまま精神を削り続けて生きていかなければならないのだろうか。

結び

人生に意味など求めていないが、せめて自由になりたい。そんなことを思う土曜の夜であった。

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