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甲子園は”夢へのリトマス試験紙”であり”良き兄貴分”的存在

ついに夏の高校野球も中止となってしまった。
これは「しょうがない」という一言では片付けられないほどのインパクトがある。自分自身も小学3年生くらいの時にテレビで見た高校球児の甲子園でプレーする姿に憧れ、高校までプレーを継続した。「一生でこの時期にしかチャレンジできない事」という希少性もあって、甲子園というものは目指せば目指すほどその魅力は増していくことを知っている。

”高校入学してからの2年半だけ”ではない。
それが「しょうがない」で片付けにくい理由だ。

夢への物差しとなる”甲子園”

そして甲子園の存在はそれぞれの高校球児にとっては”憧れ”であるものの、その憧れの尺度は人それぞれ相対的に違う。

この先も大学や社会人でプレーを継続できるような実力を持っている球児にとっては”夢へのリトマス試験紙”が甲子園。
ここで全国の猛者たちと凌ぎを削ることにより「自分の立ち位置」が明確になる。それにより、”どのレベルでプレーを続けていけるのか?”を判断する材料となる。
「もしかしたら自分が憧れのプロ野球でやっていける可能性があるのか、ないのか?」こうした自分の夢への現在地を推し量れるという役割もある。

夢への”区切り”となる甲子園

一方で、ほとんどの高校球児は【高校で本格的に競技から退く】道を選ぶ方が多い。まさに、これが最後の試合であった可能性が高いのだ。
そんな全国の高校球児が一番この「やり場のない中止」の影響を受ける。
本来こうした全国の殆どの高校球児にとって”兄貴分的な存在”になれるのが甲子園だ。

この瞬間、この高校3年の夏に儚くも夢叶わず”現役生活”に終止符を打たれるにしても、”甲子園を目指せた”という事実が心の支えになる。
そして、引退し冷静になってみる”自分たちの代の甲子園”で繰り広げられる白熱した試合や自分たちの地域の代表として戦っている選手たちを通じてみる甲子園は改めて”カッコいい兄貴”的な輝きを見せてくれる。
あの幼少期と少しも変わらない魅力をもって。

だからこそ、高校でプレーを辞めることになったとしても”甲子園を目指せたという事実”と”憧れの甲子園の姿を再確認”することによって気持ちが前向きにリセットされ、ここで一つの”夢への区切り”となる。

一生に何度かしかない甲子園出場への長年積み重ねた努力が報われないという残酷な一面もあるが、ある意味シロクロハッキリするから踏ん切りがつく部分もある。ただ甲子園は多くの高校球児にとってまさにその積み重ねてきた努力を認めてくれる存在であり、無条件に包み込んでくれる”兄貴分的”な役割も果たしている。

”過程”の大切さ

そして、個人的に一番懸念しているのは「結局は頑張ったって、報われない」というような原体験としてなってしまうことだ。

春の選抜も中止となり、夏も「もしかしたら」と思いながらも半年この最後の夏を信じて練習に勤しんできた選手の心中を思うと本当に心が痛む。
だからこそ個人的には様々なリスクはもちろんあるが、最大限のケアをもって「やらせてあげる方向で考えられなかったのか?」という疑問だ。

報道の一部しか目にできてないのかもしれないが、開催した時の主催者側リスクという”点”の部分でしか考慮されてないように思えてしまう。

高校生にとっては”ここを目指して自分は頑張ってこれた!”という過程が大事でその事実と経験はその先の各個人の人生にとっての貴重な礎になるはずだ。それが、一部の大人の事情により【頑張ったって報われない】という経験をもたらしてしまう結果となることだけは避けて欲しい

高校球児には自分自身のプレーをみせつける機会を与えて欲しい。
ある意味”負けること”により昇華されていく部分もある。

さらには今、野球を好きでいてくれる高校球児がこうした経験を経て、野球から心が離れて行ってしまうキッカケとなってしまうとするならば、同じ野球ファンとしても悲しい限りだ。

プロ野球にない魅力を持つ”名もなき高校球児”たちの全力プレーをどこか何かしらの機会で観たいと願う。

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