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言語と身体的実感

仮に私たちがオリジナルに言葉を用いることが出来るのであれば、そうした言葉には身体的実感というものが伴っており、それこそが言語活動にオリジナリティを付与しているように思われる。


私たちが言葉を連ねるとき、それが一つの表現として成立するためには、単に言葉が持つ意味だけではなく、声のトーンやリズム、表情、あるいは文脈など、それとは異なる諸要素が補助的な役割を果たしている。つまり、それらによって言葉は特定の表現へと導かれ、また、要素の組み合わせに応じて、幾つものコンテンツを言葉の中に埋め込むことが出来る。


身体的実感とは、そうした言葉本来の意味とは別の要素であり、それらと同様に意味の内容を限定するものです。しかしそれは、前者のように比較的オープンにその姿を示しているものではなく、したがって、それらのように言葉の受け手が容易に感取し得るものではありません。むしろ、言葉の内部、もしくは背後から意味を有限化している、どちらかと言えば閉鎖的なものです。


一方で、明示的な要素によって装飾された言葉は共有という方向に向かっていきます。それは言語機能の一つである伝達を遂行するための典型的な様式であり、周辺的に付随した記号によって、受け手は語り手の意図を読み取ることができる。声のトーンや表情、文脈は、いわば言葉それ自身とは無関係に変数として偶然そこに居合せ、言葉に一種の手触り感を与えている。


身体的実感に有限化された言葉は、それとは対照的に無機質な印象を与えます。すなわち、容易には手触り感を得られない。水平的な広がりと言うよりかは垂直的な深みを持ち、共有を拒むかのようにそこに留まっている。身体的実感は、それが言葉の生成に関わっているという点にその特徴が認められますが、一方で、それ自身は言葉を宛先へ届けようという機能に関してほとんど積極性を持ち合わせていません。したがって、身体的言語は、何かを伝えるというよりはただ単に何かを表現している。それらを前にして私たちが直面するのは、意味は分かるけど内容が分からない、意味は分かるけど何を言いたいのかが分からないという事態です。


身体的実感が言葉の起源に関わっていると言うとき、つまり、それらの結び付きに必然性を認めるとしても、言葉から特定の実感が反射的に連想されるとは考えていません。それは、身体を単なる物理的なそれではなく、個人的な体験を蓄積した歴史的なものとして捉えているからです。つまり、言葉の共有に関わる実感が社会的所与であるのに対して、身体的実感は個人史に条件付けられているということです。したがって、身体的言語に関しては、身体の歴史性を言葉が引き受けることはあっても、言葉が身体を拘束する、より正確には、個人的な身体性を負った言葉が、他者の身体上に同様の実感を誘発することは容易に起こり得ない。これが、意味は分かるけど内容が分からない理由です。このように、身体的言語の閉鎖的性格は、まさに身体が歴史的であること、及びその歴史性を言葉が負荷していることに由来しています。


こうした身体的言語の閉鎖性は、記述的に言葉の運用を目指すとき、つまり、ある対象を現実に即して事細かに説明しようとするときでさえ減退することはありません。むしろその場合にこそ最も顕著に現れる。身体的に言葉を用いるということは、言葉が対象を立体化するのではなく、身体そのものが対象の分節化を担う、したがって、身体的反応そのものが言葉に反映されるということです。

ある対象を前にして、それが如何なるものとして姿を現すか、あるいはそれが如何なるものとして映るかは身体に依存している。すなわち、身体とは歴史的に形成されたある種の感覚器官であり、身体性によっては同一の対象が全く別様に映ることがあり得る。身体的実感とは、そうした身体的反応の内容であり、対象の分節方法そのものである。身体の歴史性を直接的に自覚することはほとんど不可能に近いものの、対象を捉えるその視点については身体的実感そのものによって知ることが出来る。


言葉が身体的実感に裏付けられているとは、したがって、対象を捉える視点が言葉のうちに現れているということですが、それ自体は全く特別なことではありません。それは、何かについて主張しようとするとき、意見しようとするとき、あるいは表現しようするとき、言葉の選択は単に第三者への伝達を目的としているだけではなく、対象そのものに対する私的な応答という一つの地平を合わせ持っているからです。私たちが一般にそれらを感知または自覚し得ないのは、伝達に比重が置かれている場合を除けば、身体的実感と社会的なそれとの緊張度合の問題であり、そうした言葉の存在を必ずしも否定するものでありません。


このように身体的実感を取り出してみたのは、言葉のオリジナリティに関わる要素の一つとして、それに輪郭を与えるためです。それによって、言語活動におけるオリジナリティの所在を明示しようと試みたのですが、一方で、身体性にその契機を求めたのは、それが偶然的であることを示唆するためです。

いずれにせよ、純粋にオリジナルな言語活動があり得るとすれば、それは言葉それ自身とは別に、歴史性を帯びた身体によって動機付けられているのではないか。オリジナルな言葉とは身体的実感の具体化である。つまり、身体的実感が言語化された時に初めてオリジナルな言葉が生成される。仮にそうであるならば、身体的実感はオリジナルな言語活動の可能性であり、また限界でもあるということです。

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