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哲学の言語について #2

前回のテキストにおいて、意味的な連関や意味体系という表現で私が意図していたことは、社会的な意味や目的です。したがって、言葉そのものが持つ意味とか、言語の配列や組み合わせの操作によって生まれる意味などでもありません。社会的に意味づけられたもの、あるいは社会的な目的に適うもの。それらの集合体や連なり。これが私が意図する意味の体系です。したがって、それに結び付いている状態を、意味があるとか有意味性と呼んでいます。

 意味の体系と言語活動がどのように関係しているのかということですが、言語活動が意味の体系によって統制されていると考えています。すなわち、偶然性が排除されている。偶発的ではなく、必然的に有意味化が生じるように管理されている。ここで重要なことは、言語の意味を社会的に規定し、それを一方的に押し付けるのではなく、あくまでも自立的な思索を担保しつつその過程に作用するということです。それは、有意味なものは何かと考えてしまうことや、考えても結局定型的なものになってしまうことが、ほとんど自覚症状がないままに蔓延していることに表れています。主体的な言語活動をおだて上げながら、予め設計された地点に辿り着くように管理している。これが意味の体系による統制です。

 意味の体系を社会的価値の総和と捉えるとき、社会の成員がそれを遵守することは、秩序を維持する上で必要なことかもしれません。しかしながら、有意味性の過度な顕在化は、無意味に考えることはおろか、考える必要性、あるいはその機会すら奪ってしまうのではないか。それは、考えることを待たずして有意味性が先取りされてしまうからです。意味の体系は、私たちの言語活動を統制することでそれ自身の自明性を高め、最終的に考えることを放棄させる。そうした側面があると考えています。

 哲学の難解さはこうした統制の編み目を掻いくぐる。つまり、判断を保留させる。安易な理解を退けるゆえに判断が出来ない。なにかよく分からないけど、ひょっとすると社会にとって意味があることかもしれない。だから排除できない。かと言って、意味の体系に組み込むこともできない。つまり、統制のしようがない。哲学が何かに資するという可能性は、絶えず偶発的なものに過ぎないからです。このように、哲学はその難解さを以って、社会における独自の立ち位置を確保し、また有意味化から身を守っている。

 哲学の無意味性とは、したがって、哲学そのものが無意味である、つまり、何のためにもならないということを積極的に認めるものではありません。それは、ただ単に意味の体系に接続されていない状態を意味しています。したがって、社会が無意味であると断定したものでもありません。意味の体系とは無関係に存在する。ただ単にそれだけにおいて存在するトートロジカルな存在であるということ。これが哲学の無意味性です。そのようなものとして、私は哲学とその無意味性について、あるいはその可能性について考えたいと思っています。

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