見出し画像

連載小説 魔女の囁き:6



 岩瀬が米国へ発った一週間後だった。各部署からあがってきた報告書のなかに、二軍の監督と打撃コーチからのものがあった。ふたりの報告書の内容は、どちらも自身の打撃をがたがたに崩されて二軍で調整中の河合のことだった。状態がすこぶるいいというのだ。岩瀬が考えた復帰メニューを毎日忠実にこなしているという。まだ二軍で調整をはじめてから一ヶ月も経っていない。岩瀬の見解では、一軍にもどるまで早くても二、三ヶ月かかるだろうと予想していた。
 翌日私は二軍のホーム球場に足を運んだ。直接自分の目で河合を見ておきたかった。自身の運転する車で球場に乗りつけた。一軍のホーム球場は、球団事務所から歩いて十分ほどの距離にある。二軍のホーム球場は、球団事務所から車で三時間ほどの場所にあった。
 きょうはこれからここで二軍の公式戦が予定されている。河合も出場するはずだった。
 試合前のグラウンドに足をむけた。自軍の選手たちがユニフォーム姿で練習をしている。私は河合の報告書をあげてきた監督と打撃コーチを探した。むこうが気づき、ふたりでこちらに歩みよってきた。帽子をとって大仰にあいさつしようとしてきたので、私はそれを手で制した。
「堅苦しいのはいい。それより、ふたりの報告書を読ませてもらった。内容は理解した。それを踏まえた上で、私自身の目で河合の実戦の打撃を観にきた。きょうの試合、河合は出場するな?」
「ええ、三番ファーストで先発予定です」
 監督が答え、打撃コーチがうなずいた。
「わかった。ほかの選手たちには、私のことは気にせずいつも通りプレイしてくれと伝えてくれ。ちょっと河合を観にきただけで他意はない」
「わかりました」
 監督がいい、ふたりはベンチのほうへもどっていった。私はグラウンドに目をむけ、河合の姿を探した。河合はフリー打撃がちょうど終わったところだった。河合が私に気づき、こちらにむかって駆け寄ってきた。
「お疲れさまです、土尾GM」
 河合が帽子をとってきちんと頭を下げてあいさつした。髪は黒髪の坊主だった。ピアスやネックレスはあるが、いい意味で顔つきがすこし変わったような気がした。
「どうだ、調子は?」
 私はいった。
「GM、なんでおれの師匠を謹慎処分にしたんですか」
 私の質問には答えず、河合はそういった。
「えっ、だれだって?」
 私は聞き返した。
「なにをいってるんですか、GM。岩瀬師匠ですよ。どうして謹慎処分にしたんですか」
 私は苦笑した。この短期間に河合のなかでいったいなにが起きたのか。初め岩瀬はただの無知なおばさんだったはずだ。それがいつのまにか師匠にまで格上げされているのだ。
「それだけのことをしたんだ。処分はいたしかたないな」
「悪いのは自分です。自分は蹴られたことをまったく気にしてません。それどころか師匠が考えてくれた復帰メニューに感謝してます」
「わかった。処分は覆らないが、岩瀬にはそう伝えておく。あと一週間もしないうちに職場復帰するし、もどってきたらいままで通りの職務に就くから心配しなくていい。それより、ずいぶん打撃の調子が上むいていると聞いたが」
 河合が嬉しそうに笑った。
「岩瀬師匠の打撃理論はすごいです。師匠のいう通りにやってたら、あっという間にスランプから脱しました。魔女の囁き、最高っす。いままで自分が考えていた打撃がまるで子供です」
「そうか。だったらいい。きょうの試合を観させてもらうが、あまり気にせずふだん通りプレイしてくれ」
 私はグラウンドをでると、バックネット裏の席についた。主審の真うしろあたりになる。何名かの関係者が私に気づいて声をかけてきたので対応した。ほどなく試合が始まった。
 初回に回ってきた最初の打席に入る河合の姿を観て、私はまず、おっと思った。立ちふる舞いが、以前とは明らかに変わっていたからだ。いい感じに力が抜けている。この時点ですでに雰囲気があった。
 見立て通り、第一打席河合はいきなり二塁打を放った。その後の打席も河合はホームランとシングルヒットを放った。凡打の一打席もいい形のスイングでハードヒットできていた。かまえ、タイミングのとり方、スイングの角度、打球速度、打球の発射角。四打席の内容を総括すると、監督と打撃コーチから受けた報告書の内容のほうが過小評価に思えるほど、どれもかなりいい状態に見えた。
 河合はもともと非凡な才能を持っている。そしてわれわれが考えていた以上に、現在野球と真摯にむき合っているようだ。河合の才能と岩瀬の打撃理論。このまま野球にひたむきになれるなら、もしかしたら河合も球界を代表するような超一流選手に育つ可能性は充分にあった。
 試合は終盤を迎えた。河合に五回目の打席が回ってくることはなさそうだった。
 きょうのゲームの勝敗はどうでもよかった。河合の一軍復帰はおそらく予定より早まるだろうと思いながら、私は試合終了を待たずにひとり球場をあとにした。



 翌週だった。  
 ホームのナイトゲームを球場で観戦し、その後球団事務所にもどってGM室で書類仕事を片づけていると、ドアをノックする音が聞こえた。
 もう深夜といっていい時間帯になる。とくに来訪の予定は入っていなかったが、だれなのかはすぐに検討がついた。返事をすると米国から帰国した岩瀬が入ってきた。
「ただいまもどりました。土尾さんはまだいらっしゃると思って、空港から直接きました」
「仕事復帰は明日からのはずだが」
 私はいった。岩瀬は日焼けしていた。岩瀬が研修にいったMLBの球団は西海岸の温暖な気候の地域にある。雨も少なく過ごしやすいところだった。
「お土産を渡しにきました」
 岩瀬がにやりと笑って、バッグから片手で持てるていどの箱をだした。MLBの球団グッズのひとつの、選手をモデルにしたボブルヘッド人形だ。岩瀬が私のデスクに置いたのは、岩瀬が研修にいった球団に所属する、MLBのなかでも超のつく日本人二刀流スーパースターの人形だった。本人のサインも入っていた。この選手が日本の球団にいたときに私も多少の面識はあった。現在交流はない。岩瀬はむこうで本人と色々話したらしい。羨ましい感情を押し殺しつつ、私は土産の礼をいった。
 岩瀬はいたずらっぽく笑った。
「土尾さんが欲しがっているんじゃないかと思いまして。本人と話したら土尾さんのことをよく憶えていて、快くサインをしてくれました。もちろんそれは研修の空き時間での話で、むこうでしっかりと勉強と反省はしてきました。反省文と、むこうで体験したことの詳細の報告書は近日中に提出しますので、しばらくお待ちください」
 私は首をふった。出張で研修といっても非公式のものだ。反省のほうは言葉ではなく、今後の言動で示してくれればいい。
「岩瀬がいろいろ勉強できたなら、それでいい。アメリカ研修の報告書はいらん。反省文も同じだ。反省はこれからの岩瀬の言動で判断する」 
「わかりました。今後、土尾さんや柴田さんにまで処分が及ぶようなことは二度といたしません、と約束します。そしてそれを肝に銘じます」
 岩瀬はまっすぐに私の目を見ていった。私はうなずいた。
「あと河合のことで話しがあるが、きょうはもう遅いから明日にしよう。悪い話じゃないから心配するな」
 建前上岩瀬は謹慎処分中だったので、こちらの情報は一切知らせていない。
「では、きょうはもう帰ります」
「ああ、またあしたから頼む」 
 岩瀬が一礼してGM室をでていった。私はすこし拍子抜けがした。岩瀬はきょうまでが謹慎期間で、帰国後すぐに事務所に顔をだす予定にはなっていなかった。だから岩瀬が入ってきたとき、一瞬なにか重大な問題でも起きたのではと思い身がまえたのだが、本人がいった通りほんとうに土産を置いていっただけだった。
 ふと、思った。もしかすると岩瀬は、仕事復帰前に、さきほど口にした自分なりの誓いを私に宣言しにきたのではないだろうか。
 私は岩瀬がデスクの上に置いていった、日本人スーパースターのボブルヘッド人形に目をやった。バットを持った打者バージョンだった。顔はあまり似ておらず、白い歯を見せて笑っている。人形とはいえ、いかにも打ちそうないいかまえをしているな、と私は思った。
 指で軽く突くと、人形の頭の部分が小刻みに揺れ、しばらくするとそれは止まった。


 岩瀬が帰国して二週間後、河合の一軍復帰戦があった。


 続 魔女の囁き:7



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?