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連載小説 hGH:2


 井本は月に一度hGHと呼ばれるヒト成長ホルモン薬を買っていた。ある国のアンチエイジングの診療所から。その情報が、あるときうちと委託契約のある企業の裏のネットワークに引っかかった。ヒト成長ホルモンは、スポーツ界では禁止薬物に指定されていて、それは日本のプロ野球界でも同じだった。井本は数年前から買っていた。ふつうに考えれば、使っている期間もそれに符号するはずだった。
 ヒト成長ホルモンは、尿でのドーピング検査には引っかからない。井本は昨年、無作為に選ばれるNPBのドーピング検査の被験者に指名されていた。尿のみの検査で、結果は陰性だった。
 井本はうちの球団だけではなく、日本プロ野球界の顔でもあった。二十年近く第一線で活躍している。人気も人望も地位も充分すぎるほどあった。その選手が禁止薬物にどっぷり浸かっていたとなると、球界への影響ははかり知れない。
 使用が公になれば球団としての損害も大きかった。対応にかかる時間と労力と費用。生えぬきで主力中の主力選手が処分されるとなれば、戦力だけではなくチームの士気の低下にもつながる。集客やグッズなどの営業面での落ちこみもある。メディアにも叩かれるだろう。球団の力が削がれ、昨年今年と安定していたチーム力が低下していくことにもなりかねなかった。
 私は日々の業務に追われながら、そのことを考えつづけた。今季のシーズン中もずっとだった。 
 考えている間も調査をつづけ、証拠集めはした。外部に委託した調査で、買っている足跡はいくらでもたどることはできた。だが、どこをどう探ってみても、使っている確証を得ることはできなかった。
 表沙汰になる前に早くなんとかしたいという思いは日に日に募っていった。
 事態が急転したのは、シーズンも終盤に差しかかった九月の第二週だった。井本が試合中の怪我で戦線離脱をしたのだ。
 われわれ球団は、井本の毛髪を非公式に採取していた。裏方の球団職員を使って月に一度定期的に。すでに十数回採取していて、すべて厳重に保管してある。
 井本が怪我をすると、私は即座に動いた。非合法は承知で、無断で手に入れた毛髪を検体にドーピング検査を強行したのだ。結果は、ペナントレースの公式戦の全日程が終了した翌日にでた。
 その結果を受けて、私はすぐに処遇を決めた。もう、迷わなかった。午後になって、柴田をGM室に呼んだ。本件は、球団運営のトップであるGMの私とナンバーツーでGM補佐の柴田以外、まだだれも知らない極秘の事案になる。
「井本を今季で引退させ、来季監督に据える」
 私は柴田にいった。現監督は今季で契約がきれる。チームはシーズン終盤に逆転され、ペナントレースを二位で終えた。ポストシーズンも敗退して日本シリーズにも進出できなかった。二年契約の二年目だった。あらたに契約を結ばない理由はいくらでもあった。
 井本自身も選手として全体的に少しずつ数字を落としている。今年四十歳になった。それでもまだ現役をつづけられるパフォーマンスは十二分に見せていた。本人からも現役を退く話はまったくでていない。
 毛髪でわれわれが独自におこなった井本のドーピング検査の結果は陽性だった。念のため、ふたつの検査機関に依頼していた。まったくつながりのない検査機関が、どちらもヒト成長ホルモンに対して陽性だと回答してきた。それも、永続的な使用歴が認められる、と。ほかのドーピング項目には引っかかっていない。つまりは、そういうことだった。
 それらを柴田に告げた。検査結果の書類を見せた。柴田の表情は変わらなかった。
「井本には」
 柴田はいった。
「これからだ」
「引退して監督。本人、納得しますかね」
「させる」
「本人が了承するなら、私もこれがベストの選択だと思います」
 選手としていなくなっても、監督として残せるなら井本の価値をうまく利用することができる。そして、ドーピングは過去の話になる。
「本件は幹部ミーティングにかけない。事後報告という形で、われわれふたりで話を進める」
 それからふたりで、井本の監督就任までの道筋を立てた。
 井本の怪我は、すでに来季もプレイができるめどが立つくらいまで快復している。それを、快復していないことにする。当初の診断より重症で、快復する見こみがない、と。肉体の限界でやむなく現役を退く井本に、来季から監督としてチームを引っ張っていってもらう。今季逃した優勝と日本一を目指すチームの監督には、井本以上に適任者はいない。
 それらをうまくまとめて球団として公式に声明をだす。ファンや世間に対する表むきの理由はそれで大丈夫だろう。
「明日、井本と話をつける」
 私はいった。
「事前に井本に打診的なものは入れておきますか」
「いや、ドーピングの証拠とこちらの意向をいきなり突きつける。ノーとはいわせない状況にしたい。柴田も同席してくれ」
「わかりました。私も私なりに準備しておきます」
 そういうと柴田はGM室をでていった。
 ひとりになると私は考えた。あしたのことを考えると気分が憂鬱になっていった。井本を無事引退させて監督に据えたところで、ドーピングの事実自体が消えてなくなるわけではない。隠蔽して闇に葬るというだけの話なのだ。
 パソコンを開いた。今週中に確認する運営費のチェック作業が溜まっていたので、そちらを少し片づけようと手をつけた。だが、いつまでもあしたの井本のことが頭から離れず、一向に仕事は捗らなかった。



 翌日、ホーム球場にきていた井本をGM室に呼んだ。



  続 hGH:3


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