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連載小説 魔女の囁き:7


 岩瀬が帰国して二週間後に、河合の一軍復帰戦があった。
 ビジターのナイトゲームで、私は生中継のネット配信の映像をGM室の大型モニターに映して観戦していた。遠征六連戦の初戦で、スケジュールの都合上、私は今回の遠征には帯同していなかった。河合の復帰戦はホームゲームで、という話も幹部ミーティングではでたのだが、今回はあえて遠征先で一軍に復帰させることにした。理由は明確にあった。その遠征先が、河合の産まれ育った地元だからだった。
 私が河合を視察にいった翌週、岩瀬自身が二軍の試合で河合を視察した。米国から帰国した翌日だった。岩瀬は私よりも慎重で、すぐにはゴーサインをださなかった。河合がかなりいい状態だという見解は私と同じだ。岩瀬はもうすこしようすを見たいといった。河合本人に直接それを伝え、最後に追加のアドバイスをしてきたらしい。河合はまだようすを見ることも追加のアドバイスも喜んで聞き入れた、と岩瀬はいった。    
 そこから岩瀬は毎日のように二軍の球場に足を運んだ。五十打席、河合の試合での打撃を見た。そして先日、ようやく一軍復帰のゴーサインをだしたのだ。
 きょうの試合で河合は見事な復活を遂げている。成績は三打数二安打二四球、本塁打一、二塁打一。私がとくに高く評価したの安打以外の打席だった。ホームランを打ったときにいい打ち方をしているのは当然だった。二塁打も同様だ。凡打の一打席はレフトへの逆方向へのフライだったが、このときの打ち方が私にはとてもいい形に見えたのだ。
 あとは、ふたつ選んだフォアボールも私のなかでは評価が高い。以前よりもあきらかに選球眼がよくなっていた。岩瀬の河合に対する指摘のなかのひとつに選球眼もあったのだ。いいかまえ方をすることによって、ストライクとボールの見極めの精度があがる。いまは、打席のなかでの投球の待ち方もきちんとした形ができているのだ。
 今回の河合の復帰の件に、私は一切口をはさんでいない。すべて岩瀬に任せていた。河合もいまとなっては、私よりも岩瀬のほうに全幅の信頼を置いているのだ。
 岩瀬は今回の遠征に帯同していて、直接球場で河合を見ている。二、三日中に、間近で観た報告書を私のところにあげてくるだろう。
 チームとしてはアウェイながら、もともと地元での知名度が高い選手だけあって、河合は終始観客から声援を受けていた。試合が終了すると、復帰戦でチームの勝利に多大な貢献をした河合が、お立ち台にあがってヒーローインタビューを受けた。インタビューの受け答えも、以前より浮ついた雰囲気が抑えられているように感じた。復帰にあたっての感謝として河合は真っ先に岩瀬の名前をあげていた。球場のどこかにいる岩瀬をお立ち台に呼びそうな勢いだった。私は苦笑した。岩瀬の困惑した顔が私の目にはっきりと浮かんだ。
 配信の映像を切ると、私はパソコンを開いた。岩瀬から受ける報告書とは別に、GMとして現状を客観的に分析した河合の打撃の評価をリポートにまとめた。それから、チームを編成する上で、河合をひとりのプロ野球選手として総評した。
 おそらく、今後もプロ野球生活をつづけていくなかで、大なり小なり好不調の波はあるはずだ。だが、きょうの試合を見ていて、少なくとも勢いで打っていた開幕当初といまの打撃は別物だと感じた。打つべくして打った、プロ野球選手としてひと皮もふた皮も剥けた、と判断できる内容だった。もともと守備面での不安はまったくないのだ。このまま岩瀬を師として仰ぎ、野球というものに真摯にむき合っていくなら、むこう十年河合はうちの主力選手として計算していいだろう、と私は思った。



 ひとつ、問題が起きた。
 たいした問題ではない。河合が復活を遂げ、しかも以前よりいい状態に成長したことで、ちょっとした弊害がでた。
 うちのチームの、調子のあがらない選手や芽のでない若手が、こぞって岩瀬にアドバイスをもらいたいといってきたのだ。
 いままで若い選手のあいだではあまり認知されていなかった『魔女の囁き』が、ここにきて大きな話題となっているという。まだ直接岩瀬のところにいった選手はいない。現場からの報告書でそういった意見が多数寄せられてきたのだ。
 私が思わず笑ってしまったのは、アドバイスをもらう選手が岩瀬と会うときは、スライディングパンツを『二枚重ねて履いてくる』といっているところだった。スライディングパンツは、太ももや尻の部分に厚みがあってクッション性が高くなっている。もし岩瀬の機嫌を損ねて尻を蹴られたとしても、おたがいダメージが少なくてすむように、ということらしかった。
 河合が一軍に復帰してすでに一ヶ月が経っていた。河合は変わらず好調を維持している。別件で話があるとGM室に顔をだした岩瀬に、多数の選手からアドバイスを求められている件を伝えた。
「どうする、岩瀬」
 岩瀬は首をふった。
「無理です。私はだれにでもアドバイスができるわけではありません。河合はもともと才能があって、その才能をうまく使い切れていなかったからこそできたアドバイスです。過去にしてきたアドバイスもそうで、その選手の才能を上手く使い切る手助けをしてきただけなので、だれでもいいというわけではありません」
「岩瀬にアドバイスを受ける際は、みなスライディングパンツを二枚重ねて履いてくるそうだ」
「スラパンを二枚? どういうことですか」
「尻を蹴られてもおたがい大丈夫なように、だそうだ」
 岩瀬の顔が赤くなった。
「だ、だれがそんなことを」
「まあ、それは冗談だろう。とりあえず、現場のほうにはそれとなく断りを入れておく。もしまた囁きたいときがきたら遠慮なく囁いてくれ」
 岩瀬は複雑な表情でうなずいた。どうやらスラパン二枚が気に障ったようだ。
「そんなことよりも土尾さん、きょうはひとつお願いがあってきたんです」
「話があるというのがそれか?」
「はい、さきほどいった通り、いまうちでアドバイスできる選手はいないのですが、じつは他球団でひとり大変興味深い選手がいるんです」
「ほう、だれだ」
 岩瀬がチーム名と名前をいった。名前を聞いても私はその選手がピンとこなかった。岩瀬はバッグからタブレット端末をだした。二、三操作をして差しだしてくる。その選手の情報が表示されていた。
 岩瀬が興味を示しているのは、以前岩瀬が所属していた球団の二軍の三番手キャッチャーだった。私が昔所属していた球団でもある。ただ、情報を見せられても、やはり私にはピンとこなかった。その選手に特出したものは肩がとんでもなく強いといったことくらいか。投手のリードやキャッチング技術は平均よりもだいぶ劣っている。打撃はさらにレベルが低い。現在二十三歳のプロ五年目。正直、もういつ首を切られてもおかしくない選手だろう。岩瀬が興味を持った理由が私にはわからなかった。
「どういうことだ、説明しろ」
「じつは今回河合の打撃をチェックするために、わたしは二軍の試合を相当数観ました。そのなかの対戦相手として偶然見たのですが、この選手の送球のスピードがやたらと速いんです」
「キャッチャーで肩が強ければ、送球がとくべつ速くても不思議ではないだろう」
「そのスピードが尋常じゃないんです」
「というと?」
「わたしが計ったところ、盗塁されたときの二塁への送球が、つねに百六十キロ近いんです。そしてキャッチャーゴロなどで、二、三歩助走をつけて投げるときは百六十を超えます。マックスは百六十七キロです」
 私は一瞬考えた。岩瀬のいいたいことがわかってきた。
「つまり」
「今後キャッチャーとして活躍することはほぼまちがいなく無理でしょう。守備も打撃もプロの一軍のレベルではありません。おそらく今季か来季あたりで首を切られると思うのですが、その前にうちで獲得してピッチャーとして再生させたいんです」
「映像もあるんだろう、見せてくれ」
 私はいった。ここまでデータをとっておいて、岩瀬が映像を撮ってないわけがなかった。
 岩瀬はふたたびタブレットを操作した。動画の画面に切り替わった。再生された映像を観て、私は岩瀬のいったことを理解し、納得した。
「たしかに面白いな」
 ピッチャーでも、いまから先発は無理なような気がした。先発ピッチャーはただ投げるだけではなく、それ以外のさまざまな野球の技術が必要になってくる。だが、この凄まじい威力の球をマウンドからコントロールして投げこめるなら、一イニング限定のセットアッパー、もしくは試合を閉めるクローザーとしてとんでもない存在になるかもしれない。
「この選手、ピッチャーの経験は」
 私が訊くと、岩瀬は首を横にふった。
「子供のころからキャッチャーひと筋のようです」
 訊いたものの、経験の有無はどうでもいいような気がした。
「よし、わかった。トレードで獲れ」
「えっ、いいんですか?」
「すぐにでも動いてくれ」
「幹部ミーティングの承認は」
「事後でいい。本件は私が承諾した。時間がもったいない。トレードは、相手球団があって、相手選手がいて、うちからだす選手がいて、それぞれに契約がある。いろいろ根回しが必要だ。うちからだす選手の人選もふくめて、相手球団との交渉はすべて岩瀬に任せる。金銭のみのトレードでもかまわない。なにより本人の選手としての賞味期限もある。できるだけ早く獲得してうちで再生メニューを組もう」
 岩瀬は、ありがとうございますと頭を下げると、さっそく動きますといってGM室をでていった。
 ひとりになると私は、岩瀬のタブレットから移行したさきほどの送球の動画を何度かパソコンで再生した。
 何度見ても球はあきれるほど速い。だが投げ方はピッチャーのそれではない。それでもこの豪速球だ。マックスのスピードが百六十七キロ。NPBの投手の最速記録が百六十六キロになる。二、三歩助走をつけているとはいえ、それより一キロ速いのだ。NPB史上最速投手も夢ではなかった。
 プロの世界でも、投手から野手へのコンバートはめずらしくない。野手から投手へは稀にあるが、捕手から投手だと私は日本のプロ野球界では聞いたことがなかった。捕手と投手では、それこそ投げ方や体の動きがまったくちがうからだ。もし成功すれば、かなり稀有な事例となるだろう。
 そのためには、どこまで投球フォームを投手に寄せればいいのか。 
 私は、この豪速球でストライクが入り、肩肘を重点に体に余計な負担がかからないのであれば、投げ方にあまりこだわる必要はないのではないか、と思っていた。日本の野球は、よくも悪くも基本に忠実すぎるのだ。
 そのあたりの見解を聞きたいと思い、私はGM直属の部下で球団幹部の、投手全般を担当する春野にテキストメッセージを送った。


 春野は初め乗り気ではなかった。 

 続 魔女の囁き:8



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