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連載小説 魔女の囁き:5



 一週間後の試合を迎えた。ホームのナイトゲームで、私が球場入りしてほどなく試合前のスターティングメンバーの発表がおこなわれた。対戦相手の先発投手の名前は聞くまでもなかった。ローテーションの変更はなく、事前の調査で予測していた通り、今回岩瀬が攻略法を考えた例の投手がマウンドにあがる。
 私はこの試合を岩瀬と柴田と三人で球場で観戦することにしていた。観客席の最上階にある関係者専用の特別観覧室で、前面はすべてガラス張りで座ったまま球場全体を見降ろすことができる。横の壁には大型のモニターがあって、目の前の試合の映像を流すことも他球場の試合の映像を流すこともできる。十人ほどが座れる個室だった。
 岩瀬とふたりで観戦してもよかったのだが、今回はあえて柴田を同席させた。柴田はGM補佐の肩書を持つ、私につづく球団組織のナンバーツーの存在だ。岩瀬の直属の上司でもある。
 きょうの試合の結果いかんに関わらず、柴田には試合後にこの場でひとつ対応してもらう事案があった。
「きょうの戦略の勝算はどれくらいだと考えているんだ、岩瀬」 
 プレイボールがかかると、柴田はいった。
「正直わかりません、やってみないことには。理論上、わたしは成功すると考えていますが」
 一回の表が終わり、裏の初回の攻撃から、うちの打者は岩瀬の攻略法を実践した打撃をおこなっていた。あきらかに、ある一点に絞った打ち方。かなり距離のあるここから見てもはっきりとそれがわかる。選手たちへの指示はきちんといき届いているようだ。
 初回のうちの攻撃は三者凡退に終わった。対象の相手投手は見ていてあきらかに調子がよかった。岩瀬の攻略法がはまるどころか、三人とも完璧に抑えられた。攻略できるできない以前に、これは打つのにそうとう苦労するな、と思わせる投球内容だった。
 予想通り、二回裏、三回裏とひとまわり目のうちの攻撃は九人でパーフェクトに抑えられた。初めから、勝負はふたまわり目、もしくは三まわり目だと私は考えていた。四まわり目に入ると投手が代わってしまうかもしれない。あくまで、この投手を攻略するためだけの戦略だ。
 試合は淡々と進んでいった。五回までうちの打線は、シングルヒットが二本とフォアボールがひとつで無得点に抑えられている。得点は二点リードされていた。
 ただ、対象の相手投手は、うちの打者たちになにか違和感を感じているようすだった。とくに打たれてはいないのに、マウンド上でどこか投げにくそうにしている。回を追うごとにそれは顕著になっていった。
 そして試合が大きく動いたのは六回裏だった。
 狙い通り、うちの打線の三まわり目だ。ここで、岩瀬の攻略法がはまった。一番打者からはじまる好打順で、三者連続で反対方向にシングルヒットを放った。すべて同じ球種を打ち返していた。ランナーがひとり返って得点は二対一と一点差に詰め寄った。
 さらに、うちの打線がつづく。全員が、忠実に岩瀬の攻略法に則った打撃をしていた。つぎの四番がフォアボールで歩くと、五番、六番も連続してヒットを放ち、一気にたたみかけた。すべて反対方向に打ち返したシングルヒットで、一挙四点をとって試合をひっくり返した。この回まだワンアウトもとられていない。
 そこでタイムがかかり、相手チームの監督がゆっくりとベンチからでてきた。相手投手はマウンド上でうなだれている。監督はそのまま球審に歩み寄ると、ほどなく投手の交代を告げるアナウンスが場内に流れた。帽子をとり、顔の汗を拭いながら、相手投手が重い足どりでベンチへ下がっていった。見事な逆転KO劇にホームの観客が沸いた。
 私はそこで初めて、自分の手のひらが汗でじっとりと濡れていることに気づいた。横に座る岩瀬と目が合った。いまの怒涛の攻撃で得点は逆転したが、まだ試合は終わっていない。いくらこの投手を攻略できたからといって、試合に敗けてしまえばあまり意味がなかった。私は岩瀬に無言で一度うなずいて見せた。
 その後も試合はうちのペースで進み、追加点を重ね、四点リードした状態で最終回を迎えた。
 うちのクローザーが最後の打者を三振にとって試合に勝利すると、私は立ちあがり、柴田と岩瀬とがっちり握手を交わした。
「よくやった、岩瀬。岩瀬の考えた攻略法が見事にはまった。これで河合を潰された報復はできた。きょうの試合に勝利しただけではなく、苦手にしていたあの投手を完璧に攻略することができた。しかも、うちの打線に対して逆に苦手意識を植えつけることもできただろう」
 私はいった。
「ここまでうまくはまるとは思わなかったな」
 柴田はいった。柴田もきょうの結果に満足しているようだった。岩瀬は、ありがとうございますといい、安堵と喜びの入り交じったような顔でうなずいた。きょうの岩瀬はいつになく試合前から表情が硬く、口数も少なかった。無事攻略が成功して試合にも勝利し、いまは緊張から解放されたようだ。柴田と笑顔で試合をふり返っている。だが、いつまでも成功の余韻に浸っているわけにはいかなかった。私は岩瀬に告げなければならないことがあった。
「よし。では岩瀬に処分を申しつける」 
 岩瀬が驚いたようにこちらを見た。
「処分、ですか?」
 私の唐突な言葉に岩瀬は困惑していた。
「そうだ。二週間の職務停止だ。それと給料の20%を二ヶ月カットする。停止期間中の二週間は球団事務所や球場だけではなく、うちのいかなる球団施設にも立ち入り禁止だ。処分の執行はあしたからになる」
「ど、どういうことですか、土尾さん」
 岩瀬はいった。めずらしく動揺していた。
「言葉通りだ。これは、先日河合に働いた暴力行為の件に対する処分になる。処分をするとはいったはずだ」
「でも、土尾さん。あれは」
「岩瀬」
 柴田が割って入ってきた。
「自分とGMも監督不行き届きとして、年収の20%をカットする処分を受ける。これらはすべてすでにオーナーに報告済みだ」
 岩瀬が、えっ、という顔をした。
「そんな」
「たしかに話を聞いて、今回の件は河合にも非はあると私も思う。だが、いかなる理由があろうと選手に暴力は許されない。私はGMが下した処分は妥当だと考えている。岩瀬はそれだけのことをしたんだ」
 岩瀬は無言で私を見た。柴田がつづけた。
「これはGMの親心でもあるんだ、岩瀬。どんな経緯があろうと、法令や規則に抵触するような行為を働けば、いまの時代いつか必ず自分に返ってくると考えていい。みずから先手を打っておけば、話も大きくならずに済む。そう考えての処分なんだ」
 岩瀬がなにかいいたげな顔をした。岩瀬が口を開く前に、私はいった。
「岩瀬には、もうひとついうことがある」
 岩瀬が身構えた。
「パスポートは持ってるな」
「え、ええ。持ってはいますが、それがなにか」
「さっそくだが、あしたから二週間アメリカに飛んでもらう。MLBの、ある球団のフロント業務を見てきてほしい。柴田のツテで、すでに話はつけてある。飛行機の往復チケット、ホテル代などかかった費用はすべて球団で持つから心配するな」
「ちょっと、話についていけないんですが」
 岩瀬が、わけがわからないといった顔をした。
「かんたんなことだ。あしたから二週間日本での職務は停止で、その間非公式の出張で米国にいってMLBの球団運営を学んでくる。得るものは多いはずだ」
 岩瀬は初め処分に対しては神妙な面持ちをしていた。だが、MLB、費用は球団持ちと聞いて、それが徐々に薄れていった。いまはむしろ喜んでいるように見える。
「だからいったはずだ、GMの親心だと」
 柴田はいった。岩瀬はうなずき、私のほうを見た。
「わかりました。今回の処遇は真摯に受け止めます。土尾さんと柴田さんにも大変ご迷惑をおかけして、すみませんでした」
 岩瀬が私と柴田に素直に頭を下げた。
「わかったのならいい。じゃあ、急で悪いがきょうはもう帰宅してあしたの夜のフライトに備えてくれ。詳細はあしたの午前中に柴田と打ち合わせてほしい。気をつけていってくるんだ。二週間後もどってきたら、またいままで通りの職務にもどってもらう。ただ、日本を離れるからといって、謹慎中だということは忘れず、くれぐれも反省はしてくれ」
「了解です。アメリカでしっかり反省してきます」
 岩瀬は右手で敬礼をする仕草を見せ、にこりと笑って部屋をでていった。足どりは妙に軽かった。とてもあしたから謹慎処分を受ける人間の足どりとは思えなかった。
「ちょっと甘すぎたかな」
 ふたりになると、私はいった。柴田は首をふった。
「岩瀬の性格を考えれば、飴と鞭のいいバランスだと思います。じっさい、MLBと聞いて喜んではいたものの、二週間の職務停止はいい薬になるでしょう。あした詳細を打ち合わせる際に、再度反省は促しておきます。そしてMLBのフロント業務を見てくることは、岩瀬にとって貴重な体験になるはずです。運営方法やプロ野球というものに対する考え方は、日本よりずっと進んでいますから」
 私はうなずいた。今回の一連の処分には私自身多少の迷いがあった。岩瀬の行動を隠蔽する選択肢も頭にあったからだ。その選択肢をとらなかった理由は、岩瀬の今後を考えたからにほかならない。岩瀬が野球人として優秀なのはだれもが認めている。だが、あの激しい性格もあって、やはりいち社会人として考えると言動は危うい。いまの時代、ほんとうの意味で足もとをすくわれないようにしていくためには、どこかでだれかが厳しく接していかなければならないのだ。
 あしたの準備をするといって柴田も部屋をでていくと、私はさきほどまで試合がおこなわれていたグラウンドに目をやった。
 そこにはもう選手たちの姿はなく、黙々と試合後のグラウンド整備をする数人の職員たちの姿があるだけだった。



 岩瀬が米国へ発った一週間後だった。


 続 魔女の囁き:6

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