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連載小説 魔女の囁き:3


 結果は意外に早くでた。岩瀬の忠告を蹴って一ヶ月も経たないうちに、河合の打撃は絶不調に陥った。
 対戦相手の投手たちも、ただ河合に打たれていたわけではなかった。ある球団に優秀なスコアラーがいた。その球団との三連戦で、河合は相手投手に岩瀬から指摘された欠点をとことん突かれた。見ていて明らかに、欠点を見抜かれた上での投球であり、配球だった。
 その三連戦で、河合はまったく打てなかった。それだけであればまだよかった。ほかのチームも河合の欠点に気づき、以降対戦する全球団の投手に、徹底的にそこを突く投球をされたのだ。
 河合は結果がでないだけではなく、打撃そのものを崩されてしまった。見るも無残なほどがたがたになった。ど真ん中の真っ直ぐを空ぶりして三振した打席があった。その翌日の試合からスターティングメンバーを外れた。
 監督から、河合のことなのですが、と相談を受けた。河合がスタメンを外れて三日経っていた。事前に連絡をもらい、監督と打撃コーチがふたりでGM室にやってきた。
 河合本人の姿はなかった。
「先日はたいへん失礼しました、土尾GM」
 あいさつが終わるとすぐに監督とコーチが帽子をとって頭を下げた。
「どうやら私どもの目が節穴だったようです。まったく岩瀬さんのいった通りでした」
 私は曖昧にうなずいた。わざわざ足を運んで頭を下げにきたのだ。謝罪だけではないだろう。ふたりに今後の意向を訊いた。
「河合本人が、岩瀬さんともう一度話をしたいと申しています」
 監督はいった。
「このあいだのアドバイスを聞き入れたいということか」
「はい」
「ずいぶん都合がいいな」
 ふたりはばつの悪そうな顔をした。
「きょう、河合はどうしたんだ?」
「先日の非礼を深く反省しています。GMと岩瀬さんに謝罪させてほしいということで、まずわれわれが」
 謝罪して、アドバイスを受け入れる。いち社会人としての常識、プロ野球選手としての向上心や柔軟性はまだ持っているのだ。
「初めに本人がきて頭を下げるのが筋じゃないのか」
 私はそんなものはどうでもよかった。岩瀬はちがうだろう。
「あした、本人を連れてきます」
 打撃コーチはいった。
「まあ、待て。とりあえず私が岩瀬と話す。今後のことはそれからだ」
 当事者同士が抜きでそれ以上話すことはなかった。
 ふたりが辞去すると、私はいまちょうど帰社したという岩瀬をGM室に呼んだ。
「岩瀬の意見を聞こうか」
 岩瀬は意外にもあっけらかんとしていた。忠告を蹴られた時点で、このくらいまでがたがたにされることは予測していたようだ。泣きついてくるところまで予想していたらしい。その上で、がたがたに崩されたところから修正して復活する練習プログラムまで、すでに考えられていた。
 私はそのプログラムの詳細を聞き、納得した。内容に説得力があった。理論的な根拠も裏づけもあった。動作解析システムを使ったシミュレーションも、しっかりとされていた。
「あとは、本人のやる気しだいです。ここまで崩されたほうが、むしろ今後いい形で成長できるのでは、と私は考えています」
「わかった。明日再度同じメンバーを集める。岩瀬が主導だ」
 岩瀬は仕事の能力だけではなく、精神的にも成長した。私はそう思った。

 翌日、GM室に前回と同じ顔ぶれがそろった。河合は金髪の坊主頭になっていた。GM室に入ってくるなり、先日の非礼を詫びる言葉を口にした。岩瀬のほうは一度も見ず、ほとんど私にいっていた。
「わかった。プロの世界は結果がすべてだ。きみの思いは、今後の活躍で示してほしい」
 私は岩瀬を見て、でははじめてくれ、といった。うなずき、岩瀬は立ちあがった。いつになく微笑んでいた。だが、目は笑っていなかった。
 嫌な予感がした。岩瀬の気配が、やけに濃い。
「じゃあ、まずこっちにきて。実演で説明するわ」
 岩瀬が河合にいった。岩瀬と河合がテーブルから離れ、GM室の中央あたりに移動した。まわりに障害物はなく、充分に打撃のスイングができる広さがあった。
 河合がバットを握り、打撃のかまえをとろうとしたとき、衝撃音が室内に響いた。河合がバランスを崩して、床に手と膝をついた。はじめ、なにが起きたかわかっていないようだった。河合は弾かれたように岩瀬をふり返った。あっけにとられた顔をしていた。
 私は目をつぶって息を吐いた。岩瀬が河合の尻を蹴りあげたのだ。岩瀬は、きょうも変わらずパンツスーツだった。
「まだ私に謝罪がないわね」
 岩瀬はいった。
「さ、さっき」
 河合は明らかに動揺していた。
「土尾さんにしかいってないでしょ」
「い、岩瀬さんにも」
「わたしがないっていってるんだから、ないわね」
 河合は口をぱくぱくと動かすだけで、なにもいえなくなった。完全に岩瀬の気配に圧倒されていた。
「こないだあんた、わたしのこと、なにもわからないおばさんっていったわよね」
「い、い、いえ」
「わたし、あんたの母親より若いのよ」
「す、すみません」
 それでも岩瀬には、アスリートに対しての最大限の配慮があった。怪我の恐れのある箇所は避け、脂肪と筋肉で覆われている臀部を蹴った。しかも音の割に力は入っていない。河合が不意を突かれてバランスを崩したていどだ。
 私は監督と打撃コーチに目をやった。ふたりは河合にかけよった。ふたりが促すと、河合は直立して岩瀬に金髪坊主頭を深々と下げ、はっきりと謝罪の言葉を口にした。監督と打撃コーチの顔は終始引きつっていた。
 やはり、岩瀬は岩瀬だった。
「もうそのへんでいいだろう」
 私はなんの感情もこめずにいった。無知なおばさん呼ばわりの報復が臀部への軽い蹴り。これが妥当な行為なのかはあとでゆっくり考えることにした。
「本題に入ってくれ」
 その後の岩瀬の解説はじつに理にかなっていた。応用的でもあった。それでいて、河合の打撃スタイルに合っていた。投球に対する打者の始動、タイミングのとり方、上半身と下半身の動き、テークバック、グリップのトップの位置、スイングの軌道、フォロースルー。
 それらを踏まえた上で、河合の欠点となっている部分の修正点と修正法。
 河合の臀部を蹴る以外、すべて私の考えと一致していた。
 あとは、コーチやトレーナーなど裏方の人間もふくめて、どれだけ河合が辛抱強く真摯に練習に打ちこめるかだろうと私は思った。やること自体はかなり地味で地道なトレーニングになる。
「しばらくは二軍で調整してもらうことになる。状態がよくなればすぐに一軍にもどす。球団としては、少なくとも今後十年はファーストのレギュラーをきみに任せたいと考えている。がんばってくれ」
 河合を退出させると、私は監督と打撃コーチに、河合の抜けた穴のファーストに入れる選手の起用法を伝えた。当面は、ふたりいる控えを、相手投手に合わせて臨機応変に使うことにした。それから、河合が調整に失敗して一軍にあがらない想定の話をした。監督に、よその球団にほしい選手がいるかを訊いた。岩瀬にも同じ質問をした。
「早急に考えておいてくれ」
 監督と打撃コーチが辞去し、岩瀬が残った。
「コンプライアンスって言葉、知ってるか」
 私はいった。今回は河合にも非はある。年長で球団幹部でもある岩瀬を無知なおばさん呼ばわりしたのだ。だが、だからといって、手をだしていい理由にはならない。足をだすなどもってのほかだ。
「知ってますが、なにか」
 岩瀬はまったく悪びれていなかった。私は大きく息を吐いた。自分の認識の甘さを反省した。岩瀬が精神的にも成長したと感じたのは、私のたんなる思い違いだった。
「いずれにせよ、今回の河合に対する行為は処分の対象とする。今後は二度と選手に手も足もだすな。どんな悪口をいわれてもだ。わかったな」
「はい、わかりました」
 岩瀬は笑顔ではっきりとうなずいた。昔から返事はいいのだ。二十年ほどの付き合いになるが、そこもほとんど変わっていない。
「とりあえあずその件はいい。で、率直に今後どうなると思う。河合のことだが」
「わかりません」
 岩瀬は即答した。
「最善の方法は提案したつもりです。じっさい自分のモノにできるかは、本当に本人しだいでしょう。努力はむろんですが、選手の大成は才能や実力だけではなく、運やその時々のさまざまな巡り合わせもありますから」
 選手はある意味生き物だった。努力や才能だけでは推し量れない部分が多々ある。理論的に正しいことをしているからといって、必ず成功するとはかぎらないのだ。十年にひとりの才能の持ち主が、一軍で活躍できないまま引退することなどよくある話だった。
 育成は難しい。なにひとつとっても、同じ過程で成功する選手はいない。だが、同じ過程で失敗する選手は山ほどいるのだ。
 これからレギュラーの座をつかみとろうとする選手は、ほとんどが二十五歳以下といっていい。社会的にもみな若年で、上からものをいえば反発する年齢だ。方向性を示唆する。そして、プロ野球選手として基本的なことや最低限の指示はチームとして統一する。
 気持ちよくプレイできるように見守るのも、まわりの大人たちの仕事なのだ。
 本件のように、球団上層部が直接選手個々に技術的な指導など、よほどのことがないかぎりやらない。コーチや監督ですら、やみくもに口をだすのは二流の証拠だと私は考えている。いまは、さまざまな情報管理システムや詳細なデータ解析などの設備も整っていて、選手は自分自身を徹底的に分析することができる。ほんとうは、選手本人が自分で気づいて動くのがいちばんいいのだ。
 今回は、あくまで特例だった。
 そしてそれは、岩瀬という野球人がとくべつな存在であるということでもあるのだ。


 河合をがたがたにした最初の投手を丸裸にした、と岩瀬から報告が入った。


 続 魔女の囁き:4


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