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なぜ僕らは、同じ日本語を話しているのに通じないことがあるのか、と言う考察。

当たり前すぎて変な話ですが、私たちは日常生活で数え切れないほどの”言葉”を使っています。しかし、同じ”言葉”を使っていても、全く分かり合えないことも多く、モヤモヤがつのることがあります。同じ単語一つにお互いに全く違う「意味」や理解している「定義」が存在していることがある、と常々感じていました。

今日は、「理解しあえない」という現象について、私なりに「言葉の定義」と「メタ認知」を解説しながらNoteを書いてみようかと思います。いつもながら、このNoteは私の個人的な解釈を述べているに過ぎず、学問的に正しいものではないから受験生には全く役に立たないものです(笑)。

メタ認知とは

メタ認知という言葉を聞いたことがあると思います。これは、自分自身の思考や認知についての気づきや理解を指します。言い換えれば、私たちがどのように情報を処理し、理解し、記憶しているかについての認識です。メタ認知は、学習プロセスやコミュニケーションにおいて重要な役割を果たします。

言葉の定義の違い

一方、言葉の定義ですが、私個人的には、「個人の経験、背景、文化によって異なる理解をしているのではないか」と思っています。例えば、「成功」という言葉は、ある人にとってはキャリアの達成や所得(どれだけ稼いでいるか)を意味し、別の人にとっては家庭生活の充実や夢の実現を意味するかもしれません。日本人とアメリカ人にとっても、「成功」という言葉から受ける理解は大きく違うでしょう。このような違いが、コミュニケーションの誤解を生む原因となります。

都会と地方はなぜ対立するのか

同じ言葉を使っていても、受け取るニュアンスというか「定義の違い」は、対話の中でときに誤解を生むことがあります。最近、”都会のコンサルに喰われる地方自治体”みたいな強烈なタイトルの雑誌の話題が盛り上がっていましたね。

週刊東洋経済
https://toyokeizai.net/articles/-/750730

”溶ける!地方創生マネー”という鮮烈なキャッチコピー、ここで書かれている「地方(ちほう)」そして「地方創生」という言葉の「定義」は何か、私なりに考えてみようと思います。

「地方」という言葉の始まりとしては江戸時代にまで遡って、村役人を指す総称としての地方役人(じかたやくにん)とか、地方三役(じかたさんやく)から来ているそうです。つまり、昔から、中央(京都)からそれ以外の各地方に派遣される役人を「地方役人」と言っていて、結果、「地方」ってのが「中央」の対義語となり、「田舎」の意味が生まれたと考えられます。

「地方創生」とは2014年の安倍内閣時代にスタートした「政策」の言葉(ワード)です。2014年5月8日に、有識者らでつくる民間研究機関「日本創成会議」(座長・増田寛也元総務相)がまとめた提言がベースとなっています。2040年までに全国の計896自治体で、20~39歳の女性が半減するとした独自の試算をまとめ、それを打開するために「人口減少対策」と「都市への人口の一極集中を是正する」という目的でスタートしました。

つまり「地方」とは、中央(東京/霞ヶ関)の役所が、東京または都市圏以外の地方(田舎)に対して、我が国の国土発展を均一にコントロールするために生まれた政治的意味合いの濃い「言葉(ワード)」であり、私たちが主体的に自らの意思で”地元”を元気にしたいと思っている感情とは異質のニュアンスを帯びることがあります。「地方〇〇ビジネス」が得意なのは、政策情報と人的ネットワークが最も濃く集まる東京(霞ヶ関)に立地する企業であることは疑いようもなく、それをそのまま利用してきた地方行政のツケが噴出し始めたからこのような雑誌のタイトルが生まれたのかもしれません。

ローカル × 〇〇

ローカルビジネス、ローカルスタートアップ、ローカルベンチャー、ローカルプロジェクト、ローカルコミュニティ、など。

最近よく見る「ローカル×〇〇」についても、その前提となる「ローカル」という言葉の定義を、それを使おうとするチームがメタ認知していないとやがて大きく方向性がずれていく代表的な言葉だと思っています。

「ローカル」という言葉の定義によってその意味は大きく分かれます。この言葉は、中央の政治意思にとっては「地方創生」の延長線上にある政策のワードであるし、都会に住む人にとっては、田舎の小さな街で営むのどかな暮らしをイメージさせると思います。時には江戸時代から続く地方役人(田舎役人)的にしぶとく生き残っている「田舎に飛ばされちゃったよ…」というようなネガティブなニュアンスさえ含まれるかもしれません。

一方で、宮崎のような地方に住む私たちにとって「ローカル」とは、「そこにしかない尊いオンリーワンの価値観」を指します。例えば、昔からその土地で愛されているようなローカルフード、みんなが愛している原風景、活躍しているローカルスターやフッドスターのように、その場所でみんなが誇りに思っている存在を意味します。

同じ言葉を使っていても、受け取るニュアンスというか「解釈の差異」は、対話の中で大きく誤解を生むことがあります。「家族」という言葉は、ある国の人にとっては血族や民族といった血縁関係のある人々を指しますが、別の人にとっては思想やイデオロギーの話であり、そのズレが極大化すると愚かで悲しいことに戦争にまで発展するのです。

「地方創生」と「ローカル〇〇」

この辺りの言葉を使う人たちは、その主語がどこにあるのかを理解して、その場にあった振る舞いを身につけなくては、先ほど述べたような「都会と地方」の対立軸を産むことになるのです。地方で生きている私たちにとって、上記のような強烈で目をひく雑誌のタイトル(マーケティング)がもたらず分断は果たして好ましいものでしょうか?この雑誌の発行元は果たして東京の会社ではないのでしょうか?

住環境とメタ認知の関係

私たちがどのようにメタ認知を行うかは、住んでいる環境や生き方、そうした背景によって大きく影響され異なる解釈を持つと書きました。理解する「言葉の定義」は性別や世代によっても違うだろうし、ましてや生まれ育った環境や国によっても異なる。だからこそ、私たちはお互いの言葉の定義をコミュニケーションを通じて整理し、より深い理解を目指す必要があります。

相手が使っている言葉は「きっとこんな意味で使っているのだろう」という解釈ができる人間力を経験によって養い、自分なりに翻訳し、意味の重なる領域を整地して、言葉の定義を「少なくとも私たちが進もうとする方向性はこうである」と理解しあえる関係性のレベルにまで高めることができたら諍(いさか)いは無くなるのだろうと思うのです。

「言葉の定義」の解釈の違いは、コミュニケーションにおいて避けられないものです。しかし、各々の背景や環境に基づくメタ認知の違いを理解し、共通の認知を目指すことで、私たちはこの違いに対処し、より深い理解と共感を持つことができます。同じ言葉を使っているからといって、同じ意味を共有しているとは限らないこと、つまり理解し合うためには、意見が矛盾するようにも聞こえますが、「我々はみんな違う」ということを理解することが全てのベースにあると思うのです。

どこに希望があるのか

「メタ認知」と「言葉の定義」についてつらつらと述べてきました。世の中のあらゆる対立は消えることなく益々酷くなっていると感じることがあります。

ふだん何気なく使っている「言葉」ですが、それぞれの立場による認知の違いを考えることで、それを一歩深呼吸して考えるゆとりがあれば、私たちはより豊かなコミュニケーションを実現することができる気がします。生きている環境の違いが言葉の意味にどのような影響を与えるか、相手の立場や経験を考慮する。そのことで誤解を減らし、より深い対話を楽しみたい。そして共通のメタ認知である”笑顔”を持つことで、私たちは明るい未来を築いていくことができると思うのです。

最後に、音素の数が少なく、音節構造も「子音+母音」を基調とした単純な形式で、文法規則も比較的例外が少ないという難解で不思議なことば、日本語を操る私たちにとって、言葉の「定義」よりも大切なものがあるのではないか。それは、互いを慈しみ合うという感情ではないのか。同じ日本人だよね、同じ九州人だよね、同じ宮崎人だからね、同じ想いを持った仲間だからねとか、そうした、相違する理解を超えて理解し合うもう一人の自分の感情を持つというメタ認知ではないかと、まとめにもならないフワフワとした結論で今日のNoteを締めくくりたいと思います。


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