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最愛なる母の死

母が亡くなり明日で満中陰を迎える。

スキルス胃癌を告知された2016年
そこから手術、抗癌剤治療を乗りこえて
楽しい日々が戻った2017、2018年。

そして癌の再発、腹膜播種を告知された2019年の冬。
それから半年間の入院生活。
その後、治療は一切せず在宅介護。

この4年間は長かったようですごく短かかった。

病気とは無縁に生きてきた母がまさか病気になるなんてって初めは思った。

でも癌とは恐ろしいもので、恐ろしいスピードで体をむしばんでいく。

癌と聞くと、手術したり抗癌剤したら治るの?って思うかもしれないが、でも実はそうじゃない。
他の臓器の疾患がたくさんある。

母は、癌のせいで腸や尿管などが完全閉塞されストーマ(人工肛門)や左右の腎臓に穴を開けそこからそこから体外に管を通して袋に尿を排出す腎ろう。
トイレに破棄しに行ったり数日に1回袋を変える作業なども行わなければならない。

それに1時間に1回トイレに行きたい感覚に襲われてトイレで膀胱に力を入れてきばらないと気持ち悪いとも言っていた。
夜中もそれで1時間に1回目覚めてトイレに行っていた。

他にも、中毒性表皮壊死融解症(TEN)とゆう体中の皮膚がただれて剥がれてしまう病気。
例えるには悪いかもしれないが、被爆した方の皮膚みたいになる。
母が当時言っていたのはどの体勢をとっても激痛が走ると言っていた。

これになると生きれる可能性は20%と聞いていた。
母は癌と闘いながらこれに向き合って完治した。

だが、問題の腹膜播種。
これを発症すると医者でも完治は不可能で
だいたい余命は半年とされている。

完治は不可能とされているのに
体を壊していく抗癌剤治療は果たして正解なのかとゆうことで、
今年の2月からは治療は一切やめ通院もやめて痛みなどを薬で抑え込む緩和ケアを在宅医療で行うことになった。

去年ほぼ入院生活していたので、家で家族全員過ごせることがこんなにも幸せで当たり前でないことを実感した。

毎日平凡な同じことの繰り返しができることは
本当に幸せなことだと母も毎日言っていた。

母の体調が良い日は近所のスーパーに出かけた。
料理が好きだった母はたくさん材料を買い
私や父や弟のためにご飯を作るのが生きがいだって言っていた。

久々に食べる母のご飯はほんっとうに美味しくてこれが食べれるのも当たり前じゃないんだって涙が出た日もあった。

でもそんな幸せな日常も束の間で、
5月頃から母は体調が優れない日が増えていった。

食事の量も減り、横になる時間も増え
呼吸も自力でするのが苦しくなっていた。

私は毎日24時間母をそばで見ていたので
日々弱っていく姿を受け入れるのも動揺を隠すのも本当に大変だった。

自分ができることは全てやりたいと思い
在宅看護や主治医の先生がしてることを
見様見真似でしてみたり今思えば自己満だったかもしれないし果たして母はそれを求めていたのかもわからない。

でも看護師さんや主治医の先生からは
こんなにも家族が一丸となって、介護するご家族はこの現代本当に少ないし素敵な家族と褒めてもらえた。

その言葉だけでまだまだやれる。
絶対簡単には死なせないと思った。

母も食欲が出ないながらも少しでも食べれるものは詰め込むように口から物を入れていた。

もう座ることすらも辛いはずなのに
食事するために力振り絞って起き上がっていた。

でも6月下旬頃からは進行のスピードが今までとは違い1ヶ月ごとに進行していた5月頃が
6月下旬では日ごとに衰弱していった。

昨日までできたことが今日でできなくなってってことが増えていった。

もう覚悟はしないといけないと思いながらも家族全員が気持ちがついていっていなかった。

母はもう意識が朦朧としていて、限界はとっくに超えている体と死の怖さや不安など精神的からで幻覚が見えている日もあった。

亡くなる当時の朝、母は何か食べなきゃという気持ちでチュロスの粉々にしたものを少し口に運んだ。そして小さく切ったオレンジ。
それが最期の食事となった。

それから午後のこと、母が呼吸をするたびに母喉のあたりからカラカラと聞こえた。

急いで主治医の先生に来てもらい
言われたことが唾液を自分で処理できなくなる症状がでるとだいたい24時間の間で亡くなるとのことだった。 

急いで親族や母の友人を呼び来てもらった。
これも在宅だからこそ出来たことだと思う。

耳は最期まで聞こえているとのことだから
皆んなでずっと声をかけていた。

母が返答することはなかったがずっと涙を流していた。

そして、7月12日 AM0:40
苦しむこともなく静かに眠るように息を引き取った。
48歳だった。

お通夜お葬式は悲しむ間も無くただただ知らぬ間に過ぎていて、

それから1ヶ月ほど経って今でもまだどこかにいているような気がして死を受け入れているようで受け入れていない気がする。

ようやく落ち着いた今色んなことを思い出して毎日涙が止まらない日々だ。

この4年間は本当に1日1日が濃くて、
命の尊さ、生きることの素晴らしさ
そして家族や周りの人への感謝の気持ち

全て当たり前のようで当たり前じゃない日々

母が命を張って全て教えてくれた。
24歳で母を亡くすとゆうことは、誰もが経験することではないし理解も少ない分本当に辛い。

でも私は母を病院ではなく家でみんなで
看取ることができて本当によかった。

母とつきっきりで一緒に過ごした時間はかけがえのないこれからも絶対忘れることのない思い出だと思う。

母が教えてくれたことを無駄にならないように毎日を当たり前と思わず大切に。
そして周りの人への感謝の気持ちを忘れず。
人には優しい気持ちを持って。

母が安心できるようにそして近くで見守っていると信じて強く生きていきたいとおもう。

母へ闘病生活ほんとによくがんばったね。
私はずっと母のことがだいだいだいすきです。
私がそっちにいくまでずっと見守ってね。

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