死んだら殺す!

 健太は死んでしまった。
 私に全く懐(なつ)かない猫を残して……。同棲を始めて一年も経つのに、いまだに憎々しげに「シャーっ」と威嚇するネネ。だけどこれからはネネと二人きりで生きていかなくちゃいけないのだ。私にとってネネは生きる理由になるけど、ネネは本当にかわいそうだ。「パパ」がいなくなって、嫌いな女と暮らさなければならないなんて…。
 今まで健太が付き合った二人の女に対して、ネネは最初だけは威嚇しても、すぐに慣れて撫でさせていたらしいのに、私だけはダメなのだ。
「彼女たちは脅威にはならないってわかったからだと思う。だけど、理沙は俺を共有することになるって本能でわかったんだと思う」
 健太はそう言ったが、ネネがどう思っているかわからない。
 ねえ健太、なぜ私とネネを置いて、逝ってしまったの。
 不意打ちの死を、どうやって納得したらいいのだ。愛情が深い分、それは憎しみにも似た感情を掻き立てる。
 愛さなければよかった。愛されなければよかった。
どうして健太は幾重にもかけた心の鍵を全身全霊でこじ開けたのだろう。こんな風に逝ってしまうなら、なぜ……。
 世界中の男の中で、たった一人私を本当に愛してくれた祖父と同じ逝き方をするなんて、あんまりだ。あれほど恐れていたことを知っているじゃない。
 ある日、なんの前触れもなく、なんの心の準備もさせずに、いきなりポンと低い柵を飛び越えるようにあっちの世界に逝ってしまう。そういう死を、私は何より恐れていた。さよならも言わず、さよならも言わせず、どんなに大切に思っているかさえ伝えさせてくれずに、バイバイって手を振るなんて…。残るのはいい思い出だけなんてあまりに残酷すぎる。これから草木一本生えていない荒野を歩いて行くのに、その思い出たちは悲しみにこそなれ、生きるよすがにはならないのだ。
 しかもよりによって、私が大阪にいる間に逝ってしまうなんてひど過ぎる。ゴールデンウイークの真っ最中だから飛行機の当日券も取れなくて、これから新幹線で二時間半、東京駅からタクシーで一時間近くかかる。遺体と対面するまでに三時間半もかかるじゃないの。
 健太、なぜあなたは私の前に現れたの?なぜ私を好きになったの?なぜあんなにも尽くしてくれたの?あなたはなんでそんなにもいい人だったの?悪い人だったらよかったのに。今までの男たちと同じように。
 私は昔から自他共に認める男運のなさだった。「なんでよりにもよってあいつ?」「なんでそこに行く?」と、友達はみんな呆れていた。そして私を「廃品回収」と言って哀れんだ。
 「ダメ男好き」と言われるけれど、ダメ男が好きなわけではない。はっきり言って大嫌いだ。たまたま好きな男がダメ男だったのかもしれないし、私が男をダメにしてしまうのかもしれない。
 なぜか、気づくと歴代の男たちは皆私を「ママ」にして甘え、頼り、そして女を作った。
 子供の頃から親に甘えたことがないから甘えるのが下手だけど、本当は彼氏にくらい甘えてみたかった。私は決して母性的な女ではないのだ。
「お前は一人で生きていけるけど、彼女は俺なしでは生きていけない」
 男達は皆そう言って去って行った。
 だけど、健太ときたら、私に甘えるどころか、生意気にも兄か父親のように私を包み込んでくれた。私が問題を抱えている時には、あの手この手で口を割らせてその理由を聞き、一緒に悲しんだり怒ったりしてくれたものだ。泣いている私の頭を撫でてくれて、寝かしつけてもくれた。
 一人ぼっちの泣き寝入りは辛いだけだが、好きな男の腕の中での泣き寝入りは…少し甘い。
 私は大手化粧品会社であれよあれよと言う間に出世して、時には「鉄の女」と揶揄(やゆ)されてもきたが、本当はそんなに強くない。いや、強いけれど、全部鋼(はがね)で覆われているわけじゃない。泣きたい時もあるし、立ち上がれないほど傷つくこともある。誰かにヨシヨシしてもらいたい時だってあるのだ。
 だけど私は今まで泣きたい時は一人で泣き、悩みがあっても飲み込んできた。そういう可愛げのない女になってしまったのは、子供の頃からヨシヨシしてくれる人がいなかったからだろうか。それとも生まれつき可愛げがなかったんだろうか。
「可愛げがないねえ。女の子はもっと可愛くないと好かれないよ。道雄と逆だったらよかったのに。顔も性格も」
 母さんは十歳の私にそう言った。確かに兄の道雄は子供の頃本当に可愛かった。丸い顔に丸い目、愛嬌があって甘え上手だった。私は正反対で、子供の頃から長身で大人びた顔をしていたので、それが「可愛げがない」ということなのだろうかと思ったりもした。だから身長が低い女の子が羨ましくてたまらなかった。少女漫画に出てくるようなキュルンとした可愛い女の子に憧れていたのだ。
 しかしそもそも可愛げというのはどんなものなのかわからない。だからそれがどうしたら出るのかなどわかるはずもなかった。
 元夫は酒が好きで、酔うと目が座って、「俺より稼ぎがいいからって俺を見下すなよ」から始まり「やっぱり、仕事から帰った時にエプロン姿でお帰りなさいって言ってくれる女が最高だな。朝は味噌汁の匂いがして、『遅刻するよ、起きて』って起こされたい」と本音を漏らした。
「じゃあ、そういう人と再婚したらいいじゃない」
 そう言ったら、本当にそういうタイプと浮気して離婚になった。
 最後に会った時「奥さんに毎朝美味しいお味噌汁作ってもらいなよ」
 と、決して嫌味じゃなくそう言ったけど、彼は嫌な顔をして無言で去って行った。
 夫婦として三年半一緒に暮らしたから、もちろん忘れるということはなくて、時々ふっと思い出す。懐かしいわけでもないし、会いたくもないし、未練も愛情も針の先ほども残っていないのに、ただ思い出す。
 離婚後は恋も何度かしたし、不倫も一度経験がある。だけど、誰も心から愛してくれた男はいない気がする。ただ一人健太を除いて。
 
 直属の部下である健太がある日、
「今日俺の誕生日なんですけど、両親は大分だし、親友も大分だし、こっちでできた友人はみんな誕生日を知らないんで、だ〜れも祝ってくれないんですよ。奢るんで一緒に飯食ってくれませんか?」と言ってきて、「それはかわいそうだわね。いいわよ」と軽く応じたのが最初のデートだった。
 誕生日プレゼント代わりに奢るつもりが、健太はトイレに立った時に会計を済ませていた。奢られることに慣れていない私はびっくりした。
そのお返しも兼ねて高級ブランドの名刺入れをプレゼントしたら、今度はそのお返しにとシルクジョーゼットのブラウスをプレゼントされた。それは白地にグレーの蝶が舞うシックな物で、鏡の中の自分を見て「似合うじゃない!」と思わず言ってしまった。
 ネットで調べてみたら、二万円近くする。まだ安月給なのに大丈夫かと心配になった。
 それからというもの「宝塚のチケット二枚あるんで行きませんか?」だの「すごく美味しい店を見つけたんで一緒に行きませんか?」だの、月に二、三回誘われるようになった。
 何かと理由をつけて断ることが多かったが、それでも三回に一回くらい誘いに応じるうちに、うっかり「そういう関係」になってしまった。酒の勢いもあったが、やっぱり好きだったのだ。
 韓国のイケメン俳優みたいな顔をした健太を、私は最初から好ましいとは思ってはいた。思ってはいたけど、恋愛対象ではなかった。何と言っても四十代後半の私と、三十代半ばの彼とでは釣り合いが取れない。いずれ彼は去って行くだろう。プライドが傷つくのは耐えられないと思った。そういうところはガラスのハートなのだ。
 この関係を長く続けるつもりは毛頭なかった。古臭い考えかもしれないが、健太はもっと若い初婚の女と結婚すべきだと思っていた。そもそも私は結婚などする気もなかった。一回で懲りていたのだ。狭い世間をますます狭くするなんて二度と嫌だった。
「昨日のことは忘れてね」
 初めて「そういう関係」になってしまった翌朝、着替えをすませながらクールに言ったら、健太はベッドの中から、
「絶対忘れない」とニコッと笑った。 
 そしてその夜、ネネとボストンバックを抱えて、私のマンションの玄関に立ったのだ。
「ずっと好きだった」
 その夜、ベッドの中で健太は言った。
「変な人ね。私のどこが好きなの?」
「う〜ん、全部好きだけど、特に可愛いいところかな」
 ひとまわりも年下の健太に「可愛い」と言われて、私は心底驚いた。
「可愛い?ど、どこが!?」
「全部。いつも必死なとこも、我慢強いとこも、意地っ張りなとこも、ピンクと花柄が嫌いなとこも、み〜んな全部」
「ど変態なの?」
 私はお腹を抱えて笑った。
 
 付き合い始めて半年が経った頃、大好きだった祖父が、あっけなく死んでしまった。おじいちゃん子だった私は、ショックのあまり初めて会社を三日休んだ。
「健太、お願いだから絶対に私より先に死なないで。どうしてもどうしても先に死ぬなら、こんな死に方しないで」
 健太は泣きじゃくる私を抱きしめて、
「大丈夫。ちゃんとサヨナラを言ってから旅立つ。約束する」
 何度も約束してくれたのに…。大嘘つき!
 私は新幹線に飛び乗ると、震える手で大学時代からの友人の佳代に電話をかけた。家が近いこともあり、佳代には万が一に備えて合鍵を渡している。
「佳代さん、お願いがあるの。今すぐ私のマンションに行って欲しいの」
「え?一体どうしたの?健太さん、今日会社休みだよね。マンションにはいないの?」
「健太と全く連絡が取れないの。こんなこと今まで一度もないから、絶対何かあったんだと思う。たぶんもう…生きていない」
 電話の向こうで佳代が息を飲む気配がした。
「警察に連絡した方がいいんじゃない?」
「数時間連絡が取れないというだけで、警察に見にいってとは言えないじゃない」
「そうだね。とにかくすぐ行ってくる!」
 もし、もしも、時間を巻き戻すことができるなら、彼を抱きしめて言う。
「結婚して」
 今まで何百回もプロポーズされているのに、私は一度もイエスと言ったことがない。のらりくらりとかわして来たのだ。
 こんな風に命は儚いものなのに、なぜ先々のことばかり考えて断り続けたのだろう。ばかだった。もしイエスと言っていたら、彼は私の夫として死に、私は彼の未亡人として生きて行くことができたのに。
 一分が一時間にも思えた。もう佳代がマンションに着いた頃だ。
 スマホを握りしめたその時、手の中でスマホが振動した。
 荒い息が聞こえてきた。泣き声のような引きつった声だ。佳代が泣いている!やっぱり遺体はマンションにあったのだ。世界が崩壊する音が耳の中で聞こえた。
「ハアハア……けん……たさんは、ハアハア」
 すすり泣きのような声が遠くに聞こえる。
「健太さん、生きてるよ!スマホの充電切れてたんだって!」
 今度こそはっきりと笑い声が耳に届いた。泣いているんじゃなく、笑っていたのだ!
「あいつ、殺す」
 言った途端、涙が滂沱と溢れた。
 新幹線が東京駅に滑り込む直前に、私は荷物を抱えてドアの前に立った。ドアが完全に開くまでのほんの五秒が待てない。こじ開けたいくらいだった。
 まだ半分しか開いていないドアに体を差し入れて車外に飛び出した。
「理沙!」
 健太の声が聞こえ、次の瞬間その腕に抱きとめられていた。
「ごめん!」
「許さない!帰ったらボコボコに殴る」
「うん、どんどんやって」
 私は泣きじゃくりながら、健太の胸を叩いた。
「それから……それから、あなたに言いたいことがある」
「何?何?怖いな」
 私は大きく息を吸った。
「私と結婚して」
「えっ!?」
「ああ、疲れた!早く帰ろう。ネネが待ってるよ」
「ちょ、ちょっと待って!今なんつった?ねえ、もう一度言って!」
 家に帰り着くまで絶対言ってやるものか。お仕置きだ。

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