ブーゲンビリア

ああ、雪になりそうだ。全くこんな寒い日にどうしてお玉を外に出してしまったのだろう。新しく雇った女中には、口を酸っぱくして「猫を外に出すな」と何度も言ってきたのに、返ってくるのは生返事ばかりだった。
 俺と女房のお菊にとってお玉がどんなに大切か、いくら言葉を尽くしても、あの小娘は右から左に聞き流してしまう。子供のいない俺たち夫婦にとってお玉は我が子と同じなのに。
俺が板前をしていた料亭に下働きとして雇い入れられたお菊を見染めて所帯を持ったが、子宝には恵まれなかった。俺は何の不満もなかったが、一人でいる時間が長いお菊の寂しさだけが気がかりだった。
所帯を持って二年目、確か戦争が始まる前の年だ。玄関の前にひどく痩せた小さな三毛猫がまるで俺の帰りを待っていたかのように前脚を揃えて俺を見上げた。その健気な様子があまりに不憫で、思わず懐に入れてしまった。お菊が仔猫を見た時の喜びようを思い出すと、今でもふっと口元が綻(ほころ)ぶ。その猫がお玉だ。
あのいやないやな戦争が始まり、俺が出征する朝、お菊とお玉は一緒に見送ってくれた。
「涙を見せたら非国民と言われるから、泣いちゃいけないよ」
 何度も言い聞かせたから、お菊の目は乾いていた。しかし、体全体から涙より深い悲しみが滴(したた)りこぼれていて、身体中が痛かった。 
お玉は、敬礼した俺に「ニャア」と可愛い声をかけてくれた。まるで「生きて返ってきて下さいね」と言っているようだった。
そして俺はちゃんと生きて帰ってきた。
戦争が終わって復員したものの、長年奉公した料理屋から暖簾分(のれんわ)けしてもらった大切な店は東京大空襲で跡形もなく消えていた。
それこそ釘一本、手塩皿(てしおざら)一枚にまでこだわった。この先どんなに頑張ってもあんな店は二度と建てられないだろう。
しかし、安普請のバラックであっても店を再開できただけでありがたい。お菊と二人食うには困らないし、お玉も店で使う魚を毎日たっぷり食べられるから毛並みの良さは天下一品だ。
ちゃぶ台を挟んでお菊と差し向かいで箸を取る時、必ずお玉も魚の切れ端をのせた飯をハフハフと音を立てながら実にうまそうに食う。
お菊は目を細めてお玉を見ながら必ず言い聞かせるのだ。
「旦那様とお前だけが私の家族なんだから、長生きするのよ」
その白い横顔はどこか少女めいて儚(はかな)げで、俺は石にかじりついてもお菊より先に死んではならないと思うのだ。
誰にも話したことはないが、俺は戦争中に不思議な体験をした。あれは終戦の半年前だった。見張り台の上で夜番をしていた時、どこからか猫の鳴き声がして、目をこらすと夜目にも白い花の陰にお玉がいたのだ。
「あ、お玉!」 
ハシゴに足をかけるのももどかしく地面に飛び降りた直後、機関銃の音が夜空を劈(つんざ)いた。見張り台を見上げたらもう原型をとどめていなかった。もしお玉を見なかったら、俺も間違いなく蜂の巣になっていただろう。あれは絶対にお玉だった。色とりどりのブーゲンビリアが咲き乱れる南国の島に三毛猫がいるはずがない。
おや、あの音は雪起こしの雷じゃないか? 雪になる前に、何としてもお玉を見つけなければ。今頃お菊はさぞかし気を揉んでいるだろう。
「玉、玉」
大きな声で名前を呼びながら速足で探し回っているうちに、毎日家に帰る道すがら、ちょいと寄って手を合わせている神社の前に出た。この神社はあの大空襲から奇跡的に守られて本堂も樹齢千年の二十メートルを越す欅(けやき)の御神木(ごしんぼく)も焼けなかった。
「どうか玉が見つかりますように」
 本堂の前で声に出して祈り、小走りで神社を離れた。
「あら、本郷さん。どうなさったんですか?」
 五十がらみの見覚えのある女が枯葉を掃く手を止めて声をかけてきた。名前は思い出せないが、うちの店の客のようだ。
「うちの猫がいなくなってしまって」
「ああ……お玉ちゃんですね。本郷さん一人で探してるんですか?今日宮下さんは一緒じゃないんですか?」
「宮下? ああ今修行中の若い衆のことですか。今日、店は休みなもんでね」
「そうですか。でも今日は寒いですから早く帰った方がいいですよ」
そんなことを言われたってお玉を見つけるまで帰れるはずがない。
俺の着物の裾に爪を立てて丸く見開いた目で抱っこをせがむお玉を早く抱き上げたい。そして湿った鼻を押し付けられながら、喉を鳴らす音を聞きたいのだ。
女はまだ何か言いたげだったが、俺はくるりと背を向けた。
少し歩くと通ったことのない道に出た。家がびっしりと建ち並んでいて、どの家も屋根は瓦を葺(ふ)いておらず、安っぽい色付きの板が貼ってある。
このあたりの下町一帯は焼け野原になってしまったから、まだ木材も瓦も足りていないのだ。
GHQの御達(おたっ)しなのか、玄関は格子戸の代わりに亜米利加(あめりか)の家みたいなハイカラな扉がついている。ここは本当に日本なんだろうか。俺はいきなりどこか知らない国に迷い込んでしまったような心もとない気持ちに搦め捕られた。
何だかお玉にはもう会えないような気がする。お玉だけじゃない。もしかしたら、お菊とだって二度と会えないかも知れない。足元から凍るような冷気が上がってきて、一歩も前に進めなくなった。
「本郷さん!」
若い女が駆け寄って、荒い息を整えながら笑いかけた。
「ああ、よかった!黙って出かけちゃダメじゃないですか。心配しましたよ」
 どこかで見た顔だが思い出せない。
「あんたは、どこの娘だい?」
「花畑ホームの介護士ですよ。宮下莉子。私を忘れちゃうなんて、寂しいなあ」
「花畑……ホーム?」
「コートも着ないで寒いでしょう?コンビニの店員さんが連絡してくれて助かりましたよ。さ、帰りましょ」
「お玉を見つけなくちゃ帰れないんだよ」
 娘は俺の顔を覗き込んで、背中をそっとさすった。
「大丈夫。お玉ちゃんはお家で待ってますよ」
俺が立ち尽くしていると、娘は俺の手を取って歩き出した。
「まあ、手が氷みたいに冷たくなってるじゃないですか。今日はお風呂の日だから、しっかり温まりましょうね」
あの新米の女中はうまく風呂を沸(た)てられるだろうか。うまく薪(まき)に火をつけられるだろうか……。
薄墨色の空を見上げたら、大粒の雪がふわりふわりと灰色の空から降り落ちてきた。まるで真っ白いブーゲンビリアの花の乱舞のようだ。いつの日か、あの南国の島にお菊を連れて行ってやりたい。
ああ、早く家に帰らないとお菊が心配する。きっとお玉はコタツの中にもぐりこんでいるのだろう。こんな日の夕食は鍋に限る。魚はタラにしよう。お玉の大好物だからな。よし、市場に寄って新鮮なタラを買って帰ろう。おお、寒い寒い。もしかしたら今夜積もるかもしれんな。明日の朝はきっと銀世界だ。
お菊、お玉、暖かくして待ってろよ。すぐ帰るからな。

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