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『BUTTER』を読んで。

知人の薦めで手に取る。

週刊誌の女性記者と、連続不審死事件の容疑で拘束中の女。両者の、アクリル板を挟んだ対話が物語の軸である。記者は取材対象への心理的な接近に成功するが、関わる者を死へと追いやる被疑者の念に侵され、その脅威はやがて記者の親友にまで及び始める。獄中から伸びる魔の手に抗いながら2人は事件の真相を探り、その過程で各々の人生、価値観、とりわけ女性観を更新していく。

作中でキーファクターとなっているのが、料理。あるいは、素材も含めた食べ物一般である。梶井真奈子という名前から“カジマナ”と称される容疑者の内面に迫るカギであり、多彩な食品や料理が次々と登場する。

また、情景描写や心理描写においても、食や味覚になぞらえた比喩表現がかなり多用されている。たとえば、著者はカジマナの目を「巨峰のよう」と記しているが、毛細血管が浮き出た、ぎょろりと動く濡れた眼球を表現するのに、これほど適した果実はあるまい。ほかにも、唸らずにはいられない巧みな比喩が目白押しで、書くことを仕事にし、自分が用いる語彙の狭さに辟易している身としては「その手があったか!」と幾度も心の中で膝を打った。途中からは、これは一種の教科書だと思って読んだ。

最も重要な役割を果たしているのは、本書のタイトルにもなっているバターだ。さまざまな材料と溶け合い、こくとまろやかさと背徳感を与える、悪魔的な魅惑に満ちた物質。味噌ラーメンのスープであれ七面鳥の焼き目であれ、表面をつややかにコーティングしては食欲の歯止めを利かなくさせる、黄金色の液体。美味とカロリー、柔和と野性、あるいは魅力と魔力とも表現できる相反的な性質をあわせ持つバターは、カジマナという底の知れない人間の象徴だ。触ればベトつくのにつまみ上げずにはいられない、どこかの芸人みたいに謎の理論をもって摂取カロリーを打ち消してしまいたくなる、そんな誘惑の発信源。これが、めくる頁のあちこちにちりばめられているのだから、読者の手はもうギトギトだ。なのに、やめられない。

本作は実際の事件をモチーフとしているが、もちろんフィクションであり、登場人物と読者は創作の世界を旅する。だが、私は、その果てに真実らしきものに触れたような気がした。現在も東京拘置所に収監されている木嶋佳苗死刑囚とは何者か。どんなノンフィクションを読むよりも、不思議とその像を理解できたような気持ちになったのである。

(柚木麻子著、新潮社)

その気持ちを、次作への励みとします。