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【10分で学べる文学】宮沢賢治の世界を知ろう

宮沢賢治

この作家の名前は多くの人が知っているのではないでしょうか。代表作『銀河鉄道の夜』『注文の多い料理店』は国語の教科書にも載っているので、そこで初めて知ったという人も多いのではないでしょうか。

しかし、この作家という顔は宮沢賢治という人間のほんの一部にすぎません。彼は科学者であり、詩人であり、教師でもあったのです。

そんな彼のことのことについて「「作家」としての顔しか知らない」というのはとてももったいないことです。なぜなら、賢治や彼の作品の魅力は、彼自身のことを深く知ることで、はじめて明らかになるからです。

この記事を読めば、賢治の人生と彼が生きた時代を知ることができるようになり、彼の世界観をさらに理解できるようになります。そして、宮沢賢治という人の世界観と魅力をみなさんに伝えていきたいと思います。

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1.宮沢賢治の人生

1896年、岩手県の花巻市豊沢町に、父政次郎と母イチの長男として宮沢賢治は生まれます。実家が県内でも有数の質屋を営んでいたこともあり、賢治自身は裕福な生活を送ることができました。

そんな賢治の幼少期について、いくつかの興味深いエピソードがあります。

賢治は幼いころより、植物や鉱石の収集を熱心に行っていました。十三歳のときには、植物採集登山隊に加わり、岩手山への登山も行っています。幼いころから「自然」というものに魅力を感じていたようです。このように科学者としての素質がうかがえる一方で、賢治自身の優しい人柄をあらわすエピソードがあります。

賢治が父の質屋の店番をしていたときのことです。

ボロ切れを着て衣服を質入れにくるお客さんに同情してしまった賢治は「世の中不公平だ、父の家業はいやだ」と泣き出して家族を困らせてしまいました。また、農家の大事な仕事道具である農具を質入れにきたお客さんに対して、お店のお金を無償で貸してしまい、父親に叱られたこともあります。

このように質屋という家業をあまり好きになれなかった賢治は、農林学校で地質などの研究を行いながら、試作や同人雑誌の創刊を行います。

そんな賢治でしたが、23歳のとき、法華経信仰団体「国柱会」に入会し、上京しています。

なぜそのような行動をとったのでしょうか?

法華経の教えの一つに、生きているものは皆、他者のために良い行いをすれば仏となれる、というものがあります。宮沢賢治という人は最後まで「みんなのため」に生きた人でした。実際、賢治の作品である『銀河鉄道の夜』にも「みんなの幸いのためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない」という台詞があるぐらいです。

彼はみんなの幸せを祈り続け、実際に行動してきた人です。信仰団体に入会したのも、きっとそんな思いがあったからでしょう。修行を積み重ねて、強い人間になって、世の中にいる報われない人を助けたいと願い、賢治は入会したのだと思います。

しかし、そんな賢治の人生には大きな転換点があります。妹・トシの死です。一番の理解者であった妹の死に直面した賢治は、彼女の死後、その姿を追い求めるような旅に出ています。賢治が二五歳のときでした。

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花巻駅を出発した賢治は、青森を経由し、津軽海峡を渡ります。函館に到着したあとは札幌、そして旭川へと向かい、更に稚内、樺太へ旅を続けます。この旅で、賢治は徒歩や野宿などをしつつ、身の回りのものを売ることで帰路についています。家に帰ることのことなどほとんど考えていなかったのでしょう。

帰り道に書かれた『噴火湾』に次のような一説があります。


駒ヶ岳駒ヶ岳

暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる

そのまつくらな雲のなかに

とし子がかくされてゐるかもしれない

ああ何べん理智が教へても

私のさびしさはなほらない

当時、既に農学校の教諭をしていた賢治でしたが、妹・トシの死から五年後、教職を辞めています。実は退職の前年、賢治は既に次の仕事を決めていました。「多分、来春はやめてもう本統の百姓になります」と生徒宛のハガキに記しているのです。

賢治は三六歳で亡くなっています。教諭を退職してから亡くなるまでの約七年間、賢治は実際に農家になりますが、一方で困っている人のために良い肥料の作り方の相談などもうけます。またこのほかにも、石灰の販売などもしていましたが、これらのことが賢治の身体に大きな負担をかけたことは間違いないでしょう。

有名な「雨ニモマケズ」を賢治が書いたのは、賢治が亡くなる二年前のことです。そのとき既に賢治は療養生活を送っています。賢治自身には、すでに自分の命が長くないとわかっていたのでしょう。同年には遺書も書いています。

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これらのことから「雨ニモマケズ」の一説である「丈夫ナカラダヲモチ」は、賢治自身の願いでもあったといえます。

2.宮沢賢治の生きた時代

さて、前章では賢治の人生をみてきました。彼が生きた時代は1896年から1933年、明治の終わりから大正を経て、昭和の初めまでを生きた人でした。

なかでも注目したいのは、賢治が十代を過ごした時代である1910年代についてです。

当時は日清・日露戦争に勝利したものの、大逆事件という暗殺未遂事件や、地域の変革が時の政府から強引に進められていました。戦争があり、国内でも物騒な事件が起こり、慣れ親しんだ土地がどんどん変えられていくというのは、誰だって将来のことに対して不安になるものです。

賢治が生きた時代の人もきっと同じだったのでしょう。そのことは当時、大々的に報道された「ハレー彗星接近」というニュースからみることができます。

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1910年の5月18から19日にかけて、ハレー彗星が地球に最接近し、世界中は大騒ぎになりました。日本では「彗星が地球に近づいたらには奇麗な酸素を吸うことができなくなる」という噂から洗面器に水を張って長く息を止める練習をする人のことなどが報道されたりしました。

このことから当時の人々が抱えていた不安がどれほど大きなものだったのか分かります。

ここまでをまとめると、このハレー彗星事件は「自然の脅威」によって人間がパニックになった、自然の恐ろしさを味わうことになった事件だと言い換えることができるでしょう。

そして、もう一つの象徴的な事件が1912年に起こりました。映画にもなった有名なタイタニック号の沈没事件です。

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タイタニック号といえば、当時の最先端技術を集めて建造された、他に類を見ない大型の豪華客船であり「不沈船」とも呼ばれていました。人類の知識と技術の結晶がタイタニック号だったのです。しかし、そんなタイタニック号も氷山に激突してあっけなく沈没してしまいます。このことにはきっと多くの人がショックを受けたことでしょう。最先端技術が一瞬にして海の藻屑になってしまったのですから。

そして、そのタイタニック号のことを賢治も知っていたと思われます。『銀河鉄道の夜』に次のような文章があるからです。

船が氷山にぶつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。月あかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです


 ハレー彗星の事件を「自然の脅威」と呼ぶのであれば、タイタニック号の事件は「人間の知恵と技術の限界」と呼べます。

自然の気まぐれな振る舞いは、人類には時として恐ろしいものとなります。また、そんな自然に対し、人間がどれほど頭をつかって制御しようとしても、あっけなくねじ伏せられてしまいます。

ハレー彗星とタイタニック号の沈没という出来事を通じて、賢治はそのことを目の当たりにしたのです。

3.宮沢賢治の世界観

ここまで書いてきたことをまとめたいと思います。

宮沢賢治という人の特徴として、まず挙げられるのは、一章でみたきたように、不平等や不公平のように、世の中の悪いところに対して心を痛めていたということです。そして、父から叱られたというエピソードや信仰団体に入会したことから考えると、賢治は「世の中を良くしたい」という思いを生涯持ち続けていたのです。

一方でハレー彗星とタイタニック沈没事件を知っていた賢治は、人間が自然のなかのちっぽけな存在だということも忘れませんでした。

では、これらのことからわかる宮沢賢治の世界観とは一体、どのようなものだったのでしょう。

結論をいってしまえば、賢治の世界観とは、自然と人間が対立しない調和がもたらされたものでした。

その証拠として、賢治の作品には「自然の擬人化」という手法がよく用いられています。代表的なものとしては『よだかの星』の主人公・よだかは醜い鳥であるということ、『風の又三郎』においては風の神様の子が登場としていることが挙げられます。

そして、賢治の世界観を一番よく表したものは次の文章でしょう。『注文の多い料理店』の冒頭です。

これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです

自然と手を取り合い、喧嘩することない世界。

自然科学に詳しかった賢治のことを考えれば、自然と人間の共存が可能であるという自信があったのかもしれません。

実際に賢治は、自身の世界観を現実の世界で実現させようとしています。それが「本統の百姓」になるという行動の理由でした。

しかし、この夢には大きな挫折がありました。農民といっても、心の奇麗な人ばかりではありません。嘘をつく人や、いじわるをする人、誰かの悪口をいうのが好きな人もいたでしょう。そのような人々のなかで生きていくには、賢治は優しく、正しく生きようとしすぎたのです。賢治の人生を追ってきた私たちには、このことはなんとなくわかるのではないでしょうか。

さて、こんなことを思う人は少なくないでしょう。

「実現できるわけがない。そんなのは夢のまた夢だ」

この十数年、環境問題がニュースになったりしていることから、自然と人間が共生できるわけがない、と私たちの多くは思います。

では賢治自身は自身の夢を諦めたのでしょうか。

答えは「雨ニモマケズ」という有名な詩のなかにあります。

注目してほしいのは、この詩にとても具体的な部分があるということです。
例えば「一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ」というところです。

詩にしては食事のことがとても具体的に、細かく書かれています。ここで思い返してほしいのは「雨ニモマケズ」は、賢治が療養中に書いたものであるということです。

まるで、自分の夢をかなえるために必要なことを見直している、準備しているような詩です。

このことから先程の問いへの答えは、賢治は諦めていなかった、というものになります。人を蹴落とすことなく、木々の間を流れる風や、日の光と暖かさを味わう日々をみんなが心穏やかに過ごす。そんな夢を彼は手放していませんでした。

私たち自身のことを考えてみると、賢治の夢について、それが叶うことのない夢だと断定する根拠はありません。なんとなくそう思っているだけです。

実際に現代においては、SDGsなど、地球規模での自然と人間の共生のための改革が推し進められています。賢治の夢は、形を変えながらも生き永らえているのです。

おわりに

いかがでしたでしょうか。

やや駆け足ではありましたが、宮沢賢治の世界観について紹介いたしました。

最後に宮沢賢治という人の魅力を紹介します。

彼の魅力とは、賢治の、自分の夢に対する姿勢です。

どういう社会や良いのか、どうすれば多くの人が幸せに生きることができるのか、と自分に問いかけ、そして、自分なりに考えた答えが今すぐ実現しないからといって諦めるのではなく、どうすべきなのか、と問いを進める。そんな姿こそ、賢治の最大の魅力なのでしょう。

「文学作品」と言われると苦手な人も多いかも知れません。しかし、作者の生き様や時代背景を見ると、私たちが楽しめたり、学べたりする側面が非常におくあります。その教養の手助けになれるようなコンテンツを今後も発信していきますので、ぜひフォローよろしくお願いします。

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