Joyfull of life!人生は喜びで溢れてるんだ。
ええほんと。
全ては結果論。
終わりよければすべてよし。
だから途中なんてどうでもいいのかもしれない。
いんやーーーー。
私にとっては全て途中がものをいったと思ってる。
こんな今の結果を見て、やっぱり1番めんどくさいこと言ってるのは過去の自分で、こうじゃなきゃ、そりゃダメだ、って、その時点で大事に握っていた価値観やら常識を振りかざして今の私に迫ってくるんだろうな。
だからこそ、私はその当時の自分の思いだったり感覚を一生懸命探るわけ。
その振りかざした自分を見ることで、何を言われても、そうですよねぇ。ええ。ええ。あーわかるわぁ。なんて言えちゃうから。
自分が大事に抱えていた悔しさでその物事を受け止めることなく、そこから一歩成長した優しさでその物事を包み込めるから。
結局それを私自身が丸っと受け止められない限りは、私はいつまで経っても先生相手に闘うことをやめなかっただろう。
敵は外にいるってずっと信じてたし、事実、なんでこんなこと言われるんだろうなぁ…もたくさん聞いてきた。
ほんと、なんでこんなこと言われるんだろう。
なんでこんな扱い受けるんだろう?
たかだか子ども相手に。
配慮が必要だと言う、優しさが必要だと言う、そんな子どもに対してさ。
だからさ。
今Twitterを見ていて、先生の一言やら支援者の一言やらで傷ついてるお母さんの声が本当に痛くなるわけで。
でもねぇ。
ふざけんなよ。
何見てそれ言ってんだよ。
こちらの気持ちなんてお構いなしに何言っちゃってんだよ。
毎日真剣に向き合ってること、なんで見ようとしないわけ?
どんな思いでこの子を育ててると思ってるんだよってね。
って、過去にあれこれ言われたことを思いながら、そんなお母さん方の気持ちをふと思っていたらさ。
・・・私は美沙が小6の卒業間近に学校に対して爆発させた。
うちの子、なんだと思ってるんだよ、ふざけんなよって思いでね。
でも、真摯に対応されることはなく、ありえない方法で口パク謝罪をされたし、中学でもゴニョゴニョ、高校でもゴニョゴニョ笑
なーんでこの想いを理解してもらえないんだろうなぁって、本当、なんでですかねぇ?って、それぞれ私と関わった方々に聞きたいと同時に、当時、私の持ってる感覚って何かおかしいのかなぁ?って本気で思ったし。
ある場所ではモンペと言われていたかもね。
またある場所では先生の対応でお伝えしたことに対して、立つ鳥跡を濁すな…と一喝する人もいたしね。
我が子が理解されないことへの苦しみ以上に自分で自分を理解できない苦しみ。
1番自分がそれを理解したいのに、してあげたいのにできないどころか、どこがいけなかったのかな?ってあるわけない原因を一生懸命探すし責めるし。
なんでこんなこと言われるんだろうなぁ。
でもね。
ついこの前、ある企画で私も美沙の母としてインタビューを受けて、その中で「どんなきっかけで娘さんと向き合ったのですか?」と聞かれてね。
「小2の終わりに、美沙はなんでバカなんだろう。〇〇くんとノート取り替えたら頭良くなるかな」という美沙の一声を聞いて、ハッとして。
この子のこの感性でそう言ったのだろうけれど、それを聞いてただ事じゃないと感じた私は真剣に向き合わなきゃいけないと思ったんですよねって。
そしてこれを近くで聞いていた美沙が帰ってから「あの一言を言った時が1番辛かったかもしれない」って言うわけ。
えー。って驚いたけど、ほんと、そんな些細な言葉をキャッチしたことが、親として本当に良かったなぁと思えたの。
と同時に、美沙は何にもわかってないと思っていたのに、そんな言葉を発する、そんなギャップに反応した自分がとても嬉しかったんだよね。
いや、ある意味我が子が周りと違うという視点を持つことがほんとにしんどかったけどね。
私も親として覚悟を決めた、そんなきっかけの一声で。
たがらこそ。
なんでこんなこと言われるんだろう。
なんでこんな扱いされるんだろう。
ただただみんなと同じように扱って欲しいだけなのに。
ってね、先生の対応見てると
我が子が理解されない苦しみ以上に自分が理解できない苦しみに苛まれていたわけで。
こんな苦しみを見るためにこの子を育てているんじゃないんだよ。って思うわけ。
でも。
そんな苦しみとは別の世界で我が子は自分の世界の中でたくさんの葛藤をしながら、なんでこんな自分で生まれたのか、そんなことを日々向き合っていたんだなぁ。
だからね。
最後の卒展で自分の世界を表現しきったのを見て本当に嬉しくて。
よく描いたねぇ。
でもそれが描けたのは自分というものから逃げずにいろんな葛藤しながら向き合った結果、だったんだよね。
こんな自分をどう生きるか。
ただただ学校という場所でそれを経験していたこと。
そこをとことん突き詰めた、そんな時間だったのかもしれない。
そんな美沙を見て、どう生まれても、たとえそこに「障害」と言うラベルをもらったとしても、それをひっくるめた自分というものを見る逞しさがちゃんとあったんだよねぇ。
私の葛藤なんて関係なく。
ちゃんと自分の力で切り開いていったんだよ。
というわけで、本日無事に卒業式を迎えた。
小学校
中学校
高校
大学。
全て終えて見て、1番安泰な卒業式でしたの。
ええ。
私がね。
もう闘うことなんてない、平和な卒業式がそこにあったわ。
・・・が、しかし。
何人もの先生にご挨拶させていただいた中で。
「ハンデがある、配慮してって自分で一生懸命言ってたけど、こちらではそうは全く見えなかったから、そんなこと言わなきゃいいのに・・・」
うぉぉぉいっ。
美沙から大学の授業に関しての報告もあれこれ聞いていたんだけどね。
もうほんと、ここまできたら私の出る幕なんてないし。
そもそも、あの過酷な日々を乗り切った子だから。
そんな思いでうんうんって聞いてたわけだけど。
あははは(棒)
ほんと笑うしかないぜ。
いろいろ大学にも伝えていたから話通ってると思っていたけど。
1番環境いいと思っていたけど。
それでもいろいろあるのは、そこに立場なんて関係なくいろんな世界を見ている「ひと」という人がいるからです。
いやいやほんと、美沙はそんな中、頑張ったねぇ。
絵があってよかった。
絵がなかったらどうなっていたかな。
絵がちゃんと自分の世界をしゃべってくれるそんな術を自分と闘いながら手に入れたんだ。
子どもは大人が思う以上にたくましいよ。
学校で起きた先生とのやりとりを聴いてるお母さんのしんどさ、悔しさ、悲しさ、それ全てひっくるめてわかるー。
先生だから全てを察する、なんてことないのもわかるー。
だからこそ。
先生には親が子どもを育てる深さを知ってほしいなと思う。
子どもを産んでるから、産んでないから、そんなこと関係なく、学校は「人を育む」場所だから。
先生は人を育む人だから。
頼むからそこ、わかってほしいなぁと思うのです。
深く一歩踏み込んで、子どもを育てると言う視点を捉えてほしいのだ。
と同時に、お母さんも一歩踏み込んで先生が「子どもを育む」と言う世界を知ってほしいなと思うのです。
美沙は学校という場所で確かにいろんな世界を知ったし、たくさん傷も作ってしまったけど、そんな傷をきちんと昇華させてそれを絵に表現している。
逆にその世界がなかったら、そんな絵を描けなかったとすら思っているのです。
こんなにも深いものを見られる場所は世の中ないんだよ。
そして障害ではなく、美沙の中の障壁という視点でそこを乗り越えさせてくれた先生もいたのです。
それは私だけでは到底できなかったことだと思ってる。
改めて、美沙の学校生活が全て終わって、1人の子どもが学校という世界で過ごすって改めてすごいことだなっておもうのです。
美沙がやってきた教育は今日生。
今日を生く、なんだ。
美沙にとっての学校は今日を生きる場所、だったのね。
親の「育てる」と先生の「育む」。
見ている世界は同じようで違う。
だけど、どちらのやっていることも本当に尊いものなんだよ。
そんなどちらもの世界を見れたこと、私は改めて幸せだなぁと思ったし、あーこの世界を美沙を通して見たかったんだなぁと思ったのです。
そう思えたら、過去に受け取った数々の言葉たちは、悔しいではなく、ありがとう、なのです。
そうなったら私のお母さん人生としては最強なんだ。
この絵のタイトル、最初は「ハンディキャップ」だった。
それが二転三転して「ギフト。」になった。
私がつけるなら・・・
JOYFULL of LIFE!
・・・って言ったら美沙には鼻で笑われたけどね笑
人生の全ては楽しみで溢れてる。
笑った日も泣いた日も
怒った日も喜んだ日も
全ては生きる喜びだった。
なんでわかってくれないんだろう、なんで自分をわかれないんだろうと悲嘆にくれた日ですらも、生きる喜びであり、私にとっては自分を母として前進させるための原動力だった。
全てに感謝!
うん。
敵は結局自分の中にいたわけで。
自分の見方一つで敵はいなくなる。
ね。
子育てって奥が深いんだよ。
祝卒業!
いよいよ社会人となるあなたは、あなたらしい先生になったらいいよ。
いろんな世界を知るあなただからこそなれる先生があった。
母としてあなたのこれまでの人生への信頼感は揺るぎないものです。
ここまでいけば親バカも完璧ね笑
今日から私、プロの親バカ師を名乗ろうかと。
ええ。
仕事は自分で作るものです。
ないなら作っちゃっていいんだよ。
今日もここまでお付き合いくださり本当にありがとうございました。
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