御堂狂四郎、愛したゲームにまつわる小話

ロックマン8 メタルヒーローズ

 ロックマンシリーズはどれも面白くて大好きだが、8には特別な思い入れがある。

 保育園の頃、僕の家で一緒にロックマン8を遊んだY君が『僕も買ったよ、ロックマン』と、自分でも購入するぐらい気に入ってくれたからだ。

 自分が良いと思って紹介した物を、誰かが良いと思って手にしてくれる。当時からそうした事に喜びを感じていたのだなぁ、と思う。
 
 ロックマンはゲームより先に、漫画家の有賀ヒトシさんが描いた『ロックマンメガミックス』を読んで好きになった。

 この漫画はコミカライズの極地とも呼べるとんでもない作品で、セリフもストーリーもゲーム上ではほとんど描かれていないロックマンの世界観を見事に引き出しているのだ。
 本当に好きでないと、こんな物は作れないと思う。

 愛というのは想像力の事であり、その力はロボットに心を持たせられるほど強いのだ。

ドラゴンクエスト2 悪霊の神々

 ドラクエは8でやめてしまった。6で感じていた何かが変わっていく感覚がシリーズごとに強くなってゆき、面白くないわけではないのだが僕は8でコントローラーを置いた。

 それはハード性能の向上によって、ドラクエの『工夫によってなんとか広げていた世界』が、本当に広がってしまったからではないかと思っている。僕は多分、その『工夫によって』の部分に魅力を感じていたのだろう。(転職システムや特技の自由習得化による没個性路線も個人的にはピンと来なかった。誰でも勇者になれるのも『?』だったし、そもそも勇者があんまり強くない)

 ところで、ドラクエ2では冒険を通して、仲間のサマル王子とムーン王女とは、それぞれたったの3回(場合によっては2回になる)しか話す機会が無かった。こう書くと味気ない感じがするかもしれないが、実はそんな事はない。むしろここに深みが有るのだ。

 なぜかと言うと、出会った時は敬語で話していた彼らが、エンディングでは親しげなタメ口に変わっているのだ。これは長い冒険の中で、色々な事を語り合い、時には喧嘩をし、時には励まし合い、戦い抜き、絆を深めて帰ってきた証拠に他ならない。

 そう、3回しか話していないと思っていたのは、僕が『知らなかっただけ』だったのだ。

 僕はこの事実に気がついた時、更にドラクエが大好きになった。無数の制約が有る中、クリエイター達があの手この手の創意工夫によって生み出して刻んだ『物語・時の流れ・人の成長』を感じたからだ。

 当たり前の事だが、世の中には目には見えない物が存在する。そして、それこそが何より重要であったり、面白さの正体であったりする。昔のゲームには容量の都合で全てを見せられない分、そうした工夫を強く感じられる作品が沢山有る。
 
 そのために開発時間を割いたのだと考えれば、あの理不尽なロンダルキアでの仕打ちも価値が有るってもんだ。

RPGツクール4

 子どもの頃、友達の居なかった僕は(今でも居ないが)ゲームばかりしていた。けど、ゲームは高い。欲しければ欲しいだけ手に入れられる物ではなかった。

 そんな時、某児童向けコミック雑誌で『自分でゲームを作り、それを遊べるゲーム』が有る事を知った。僕はサンタにそれを貰い、無我夢中で僕だけが面白いと感じるそれはそれは酷いRPGを量産し、それらを何回もクリアした。今でも記憶に残っている『名作』はいくつも有る。

 僕はその頃に『何かを作り始め、完成させる』という事の難しさを知り、同時に『人に方法を与える』という事がどれほど素晴らしい事かを知った。

 ツクールシリーズはバグや作り易さに当たり外れが有るが、僕にとって4は大当たりだった。出来の悪い子ほど愛おしいのだ。

クロノトリガー

 RPGというジャンルは無数の名作が有って、今もなお止めどなく生まれ続けているが、一番面白かったRPGは何かと聞かれれば、僕はこのクロノトリガーを挙げる。

 理屈っぽく変な所にリアリティを求める性格の僕は、ボスが仲間になると弱体化する現象にいつも不満を抱いていた。ところが、このRPGはその理由をキチンと補完しているのだ。『魔力が…吸い取られていく…!』このセリフには本当にやられた。なるほど!魔力が吸い取られたから弱くなったんだな!と。

 もちろんそれだけではない。歴史を変える為にタイムマシンで原始から未来まで飛び回り、主人公が一時離脱し、仲間達で野宿をしながら語り合うシーンまで盛り込むという、当時では考えられないアクロバティックかつ斬新なシナリオ展開にも度肝を抜かれた。

 そりゃあすごいに決まっている。なぜなら、FFを作った人とドラクエを作った人とドラゴンボールを描いてる人が手を組んでいるのだから。

がんばれゴエモン3 獅子重六兵衛のからくり卍固め

 ゴエモンシリーズはとにかく粋なのだ。『二枚目』『いけめん』『すまーと』『くーる』等、世の中にカッコ良さを表現する言葉はいくつも有るが、僕は『粋』なカッコ良さを持つ人を支持している。

 ゴエモン達はいつも大真面目に下らない(褒め言葉)ギャグをかまし、からくり仕掛けのすてーじをひょいひょいと飛び越え、ボカーン!と痛快に悪をぶち壊すが、それ以上に魅力的なのは粋なせりふ回しの数々だ。
 
 からくり温泉(雪国にある温泉がモチーフのステージ)での一幕。

 敵『人様の入浴を邪魔する貴様らに、風呂上がりの「ふるーつ牛乳」を飲む資格はないですな!』

 ゴエモン『へっ!オイラは「らむね」でけっこうでいっ!しかも腰に手を当て、豪快に飲むぜっ!』

 僕はこのせりふが大好きで、温泉や銭湯に行くと必ず思い出してしまう。

 風呂屋で飲むふるーつ牛乳は確かに風情が有るが、らむねも実に風流である。「はいから」なせんすで返してみせる所が、江戸っ子のゴエモンらしい。
 こうした言葉を選べる「くりえいたー」の方は、本当に『粋』な感性を備えている人なのだろうな、と思う。

大乱闘スマッシュブラザーズ

 僕らの世代は、ゲームの歴史上重要な時期をリアルタイムで目撃しているのではないだろうか。
 
 ポケットモンスターが世に飛び出し、プレイステーションやセガサターンやニンテンドー64が次元の壁を超え、オンラインゲームやアプリゲームなんて麻薬じみた物も登場した。とにかくゲームが急激に進化・発展していく様を見ていたような気がする。
 
 そんな時代に、僕が特に衝撃を受けたのがスマブラだ。
 大好きなヒーローが夢の共演を果たすと問答無用で鳥肌が立ってしまう体質の僕に、マリオやリンク達の作品の枠を超えた共闘・対決はいささか刺激が強かったかもしれない。

 スマブラは今や世界中で愛されており、制作会社の枠を超えた夢の共演を果たす舞台として、活躍し続けている。その原点である初代スマブラは、まさに歴史的な一作だ。
 
 ちなみに、海外のファンはバンジョーとカズーイが参戦した時などは狂喜乱舞していた。
 日本ではややマイナーなバンカズだが、海外では割と広く知られているらしい。利権の問題で、スマブラに参戦する事は絶対に無いと言われていたのだ。

 ゲームは夢を見せてくれる物から、夢を叶えてくれる物になった。進化とは本当に凄い事なのだなと思った。

サガフロンティア2

 良いゲームの条件は何だと思う?と聞かれれば、僕はこう答える。『楽しみ、学ばせてくれるゲームの事』だと。

 もちろんこの学ぶという言葉は、知識や情報を得て何かに詳しくなるという意味でもなく、計算が早くなったり英語を使えるようになるという意味でもない。優しさの受け渡し方、自分や他人の守り方、人の愛し方、つまり心を知るという意味だ。
 
 サガフロ2はサガシリーズでも異端の作品で、一般的なRPGとは一線を画すシナリオを採用し、まるで二冊の歴史書を交互に読んでいるような感覚でストーリーが進んでいく。
 一つの時代、それは人々の成長と挑戦の記録なのだ。出会いが有れば別れも有るし、信頼が有れば裏切りも有る、生まれてくる人がいれば死ぬ人もいる。沢山の登場人物が築き上げていく時代は、学びに満ち溢れていた。

 ちなみに当時、攻略サイトなど無い時代。後半に跳ね上がる異様なまでの難易度には心が折れそうになった。ラストダンジョンでセーブすると、街に戻って補給が出来なくなるという仕様だけはあんまりだと言わざるを得ない。

ロックマンDASH〜鋼の冒険心〜

『最近、走ってないな』とは、クレヨンしんちゃんオトナ帝国に出てくるケンのセリフだ。
 なるほど、やはり人は走らなければならないのだ。息を切らし、自分の目で見、時にはヘトヘトになり、出会いに喜び、別れに悲しみ、感動に辿り着く。僕はそう思っている。
 
 ところで、ロックマンDASHは売れなかった。
 なぜこんなに面白いゲームが売れなかったのか分からないが、『売れない名作は存在する』という事を教えてくれた作品であるとも言える(逆に、売れる駄作が存在するのも不思議な話だ)。2も良いが、個人的には未知の孤島を冒険している感に溢れている1を推したい。
 
 何度クリアしたか数えていないが、今でもパズーとシータの声(多分、ラピュタを意識しているのだと思う)を聞きながら広がりの有る世界を走って冒険したい時が有る。3は開発中止になってしまったが、もし発売されればどんなゲーム機であろうと買うつもりだ。久しぶりに走りたいのだ。

ポケットモンスター

 僕のような平成の人間にとって、ポケモンとは『赤・緑・青・ピカチュウ』であり『金・銀・クリスタル』の事なのだ。

 現在でもポケモンの人気は衰えを知らず、どんどん進化し多様性に富み、完成されたコンテンツになっていくが、それが嬉しくもあり少し寂しくもある。
 例えるなら、子どもの頃に仲良しだった友達が遠い国で偉い人になってしまったような気持ちだ。

スーパーロボット大戦Impact

 こういう事を言うと、懐古主義だと言われるのは分かっているが、言う。僕は最近のスパロボがどうも苦手だ。

 乗換えができる機体が動き過ぎ(νガンダムのそんな動きはアムロにしかできないのに…)、要らない複雑なシステムを採用し過ぎ(小隊とかパイロット養成とか、そんなん要らない)、コンバトラーやゲッターの分離運用が出来ない(分離して使わなくても、分離出来るという選択肢がロマンなのだ)、武器を複合させ過ぎ(同じく、使わなくても個別で有るという選択肢がロマンなのだ!)等、言いたい事が山ほど有る。
 
 僕はハッキリ言って古い人間かもしれないが、スパロボファンとして、スパロボの何が魅力だったのかを語りたいと思う。

 スパロボは、本来では有り得ない共演アニメを想像できるゲームだったのだ。

 そこに美麗なグラフィックを用いた細やかな動作は要らない。ビームライフルを撃つなら、素直にビームライフルだけ撃てば良いのだ。カメラアイを発光させたり、モーションを挟み、誰にでもできないような囮撃ちをしたり、そうした動きは想像を妨げる要因になるのだ。

 動きが最小限だから想像する余地ができる。アムロならこう撃ってるんだろうな、カミーユならこう回避しているのだろうな、マジンガーはビルに倒れ込み、瓦礫の中から起き上がり、反撃の光子力ビームを撃っている時、ボスボロットがZZのエネルギーを補給しているんだろうな。こうしたアニメ映像を脳内で思い描きながら、プレイするのが楽しいゲームだったのだ。

 最近のスパロボは、描き過ぎているのだ。
 戦闘シーンはもはやアニメだし、なんならアニメを超えてしまっている気さえするし、爆風や影まで精密に表現され、想像を膨らませて楽しむ余地は無いと言って良い。早い話が『完成され過ぎている』のだ。

 完全に独断と偏見だが、スパロボはα〜impactぐらいが丁度良かった。
 専用機はそこそこ個性の有る動きをし、乗換え可能な機体は最小限の動き。全く動かないのも寂しいのであれぐらいが本当に丁度良かった。

 散々と文句を言ってしまったが、最近のスパロボを動画で観て楽しんでいる事もある。本当にbgmとアニメーションが凄いのだ。ただ、ゲームとしては…。昔からのファンはついて来れているのだろうか、と思う。


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