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短編小説「多様性特区」

「じゃあ、行ってきます」

 妻にそう言って部屋を出る。そして家を出る前に玄関にある霧吹きを全身へ噴霧する。中身は三日前に幸魂さきみたまを降ろしてもらったばかりの浄水、鮮度がまだ良いらしく「護られている」と実感できる。

道へ出て隣のオオハシサンの玄関先を見ると十月だというのにまだユーカリの葉が奉られている。やはり自分にとっての八月の月奉樹が目に入るのは不快極まりない。だが、オオハシサンは分派ゆえに様々なしきたりが遅れているのだと思えば優越感を感じる。そんな私の横を子供が走り抜けて行った。

まっへよーまってよー」と、どうにも聞き取りにくい発音で一人の子が遅れて早歩きで追いすがる。歯が全部ないのは大層しゃべりづらかろうといつも思う。彼の父親も歯がなくて会話はいつも一苦労だ、正直彼の名前の「はじぇろー」も正しい発音で呼べてるか怪しい。歯は「かみきる」もので、神を切ってはならないとかそんな「しきたり」で、生えたそばから抜歯するらしい。以前うどんを「おふりわけ」しに行って苦い顔をされたの事を思い出す。そんな思考も大声で遮られる。

「どうしよー、頭がない」

先に走っていった子供だ。視線をやると道の真ん中に首と左腕がない失魂物、共用語で死体だったかな?が放置してあった。得心がいった、先程大声をあげた子供(ムジャフさんの長男)が縁切り出来ないからだ。縁切りといっても僕らの呼び方でムジャフさん家では違う筈だが。確かあそこの家は失魂物を見たときは顔に唾を吐かなけれいけないのだ。はじぇろーさんの子供が追い付いた時にはとうとうその子は泣き出していた。

 そこへ一人の老人がやって来た。胸には青く光るバッジがこれ見よがしに佇む。「越境行為裁定者」を示すバッジだ。二十以上の「おつとめ」に精通している証で、「おつとめ」同士が競合していずれかが正しく「おつとめ」のしきたりを行えない場合に解決方法を提示できる凄い人だ。以前私も試験を受けたが、普段使う言葉と共用語の違いに苦戦して諦めた。「おつとめ」は「しゅっきょ」いや「ゆーきょー」だっけな。あれほど勉強したのに今では小指の先程も覚えていない。無論、ご近所さんのものは多少は頭に入っている。

老人がふむふむと手許の住所録と現場を見てから電話をかけたり手帳へメモをとったりしていた。少しして周りの人達(気付けば先程より増えていた)へ説明する。

「この死体は近所の岳田さんだ。サンダさんがミジョルの誓いに則って首を千切って持ち帰ったそうだ。サンダさんは伴侶を五秒ほど直視されたので仕方がなかったと言っている。左腕はファンさんが川で燃やしたのが確認できた。これは右停左送の礼ですね。」

皆は黙って聞く。他のおつとめに依って自分のしきたりが果たせなかった場合に、職場や「おあつまり」に説明する必要があったりするためだ。そしてムジョフさんの長男に裁定を下した。

「君は岳田さんの頭が有った場所に唾を吐くといい。必要なら裁定証明書を出そう。」血だまりを指差してながら言い付け加えた「結果よりも顔に唾を塗ってあげたいという君の気持ちが大事なんだよ。」

浮かない顔のムジョフさんの長男を励ますように優しい声だ。たちまち彼の顔に明るさが戻り、岳田さんだった失魂物に走り依って盛大に唾を吐いた。横でバッジを着けた老人と野次馬の何人かが拍手をしていた。正直、理解は出来るが唾を吐きかける行為に納得は行かない。少し不快な気持ちになってしまったので早足でその場を去る。時計の針を立て太陽に向けて影を見た。仕事まで余裕があるなと安心して少し早足をゆるめた。

衝撃

地面が下?

痛い

再び衝撃

目の前に地面がある。手足は動かない。誰かが走ってくる音が聞こえてなんとか顔を向ける。ボンネットが歪んだ車が見えた。ああ、轢かれたのか。

「すいません。大丈夫ですか?よそ見をしてしまって」

車から降りて来た女性が泣きながらそう言った。そうして何処からか取り出した金槌の様なもので自分の右手を「悪魔め」と言いながら叩き始めた。いや「てあて」するなり、「てあて」組合に連絡するなりしてくれよ。そうこうしてる内に人集りが出来ていた。唄や叫び、ぺっと唾を吐く音や手拍子など喧騒に包まれる。激痛が襲ってくる。人混みが開けて牛と黄土色に身体を塗った数人の男性がやって来た。しらない「おつとめ」だ。

「ヒリングコンベアーの上級処官です。もう安心ですよ。では、4つ足しの相手が原因の怪我なので4日間の御唱が必要となります。近くのレスタまで搬送しますね」

そう言って牛の背中に縛り付けられた。意識が遠くなる。身体が冷たくなる。そういえば朝は妻に「たいらげ」をしていなかったな。4日も家を空けたら飢えてしまわないだろうか。
















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