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多言語を操る人だけが知っていること

こんにちは! 今日は言語のお話です。

ホー太郎さんがこんなnoteを書いていました。


長いけど無茶面白かった。
多言語を知る翻訳家ならではの視点で、日本人と言語の関係を論じています。

日本語では韓国語などの一部を除いた諸外国語と比べ、自分と相手の呼び方を決めるだけでもかなりの労力を要します。コミュニケーションを始める前から相手と自分の立場や関係性を考慮しなければならず、もうこれだけで何を話そうとしていたのか忘れそうなレベルです。

私たち日本人が「以心伝心」とか言って言葉をサボりがちになるのは、この日本語の特性ゆえ、コミュニケーションに疲れてしまうからかもしれません。

マレー語で仮面ライダーを見るとどうなるか

マレーシアに最初に来た頃、知り合いも少なくヒマでした。
親子で「仮面ライダー」ばっかり見てたのです。

マレーシアでも仮面ライダーは大人気。当時はマレー語のテレビでも吹き替えで再放送をやってました。

そしたら子供がこういうのです。

「これマレー語で見ても今ひとつ、面白くないんだよね」と。

確かに。言われてみると、「俺、参上!」が「Saya datang(私は来た)」になる
迫力がいまいちだし、なんかモモタロスの格好つけたところが伝わらない。
「なんじゃこれは!」が「apa ini?(これはなに?)」になる
やっぱり伝わらない。
(「俺、参上」がそのまま「Ore Sanjou」になってるバージョンも見ました)

英語の「ケロロ軍曹」も同じでした。やっぱり「英語だといまいち」です。

ケロロ軍曹って、居候のくせに、自分のことを「吾輩」って言うのです。これが英語の「I」になると慇懃無礼さが伝わらない、と。ケロロ以外にも、似たようなカエルがたくさん出てきて、違いは一人称と色と顔くらいなのですが、一人称が全員「I」になって性格がボヤけてしまう。

ケロロ自身も、小さい頃は「俺」、真面目になると「僕」、ヤクザっぽくなると、関西弁になったりするんです。ところが、吹き替え版だとわからない。

つまり日本の漫画が楽しい理由の一つは、多分日本語そのものにあるのでは? と言うのが私と息子の仮説です。日本語になると、「キャラが立つ」のです。だから、海外で人気がある漫画って、キャラものよりも、ストーリー自体が面白い漫画が多いかな。

ホー太郎さんの仮説でも、日本語は一人称が多い。しかも人間関係において非常に細かく「ウチ」「ソト」を明確化する言語であると言います。だから、日本人がやたら他人や上下関係を気にするのは、日本語を使ってる限りしょうがないのかなと。

普通に母語を話すだけでこれだけ「ウチ」「ソト」を常時意識させられてしまうため、「皆やってる」「空気読めない」とかその手の「自分たちと同じグループvs自分たちと違うグループ」を基にした発想が強くなってしまうと考えてもそんなにおかしくありません。冒頭で挙げたような「あいつはズルイ」的な発想の根源はこのあたりにあると考えても良いでしょう。

で、その「ウチ」「ソト」があって、細かい一人称があるからこそ、人間同士のやりとりが面白くなる。ケロロ軍曹が突然「僕は」と言い出したら日本語話者は「あれ? どうした!」と思うわけです。

同じ相手に敬語を使ったりへりくだったりっていうのも独特です。偉い人を落としたり上げたり忙しい。

当然ですが、日本語の場合は社内では尊敬語使う相手に社外では謙譲語を適用したりするのでややこしいです。同じ相手に尊敬語使ったり謙譲語使ったりするのです。
相対敬語を雑にまとめると、「社内では上にペコペコするけど、社外に対しては一丸となって下手に出る」ということです。
絶対敬語を雑にまとめると、「オレよりエラい奴はどこに行ってもオレよりエラい」ということです。

こういう慇懃無礼さや、妙な上下関係にも、漫画が絶妙になる秘訣があるのだと思うのです。

外国語を学ぶと、日本の姿も非常にわかりやすく見えてくる例かな。

外国語にも豊かな世界がある

一方で、この事実だけで、即座に「日本語って他より豊かな言葉だね」と決めつけるのも違うかなと。逆に、英語で言えて日本語で言えないことも多い。一方からしか見えない「モノリンガル」の人が、決めつけるのは難しい。見えてない世界があることをいつも意識しなくてはなりません。

ちなみによく「単純」と言われるマレー語を国語とするマレーシアでも同様です。

「少なくともバイリンガル以上の我々マレーシア人だけがわかること9つ」という記事がありました。国民の多くがバイリンガル、トリリンガル、というマレーシア人からすると、見える社会は相当違う、と。

例えば、「言語を混ぜる(bahasa rojak)」です。

複数言語が得意なマレーシア人は、あえて好んでマレー語、英語、中国語、タミル語を全部混ぜて一つの文章に押し込んで使う、と。「Let’s Makan Lah!(ご飯行きましょー)」みたいにちゃんぽんで使うんです。Makanがマレー語でLahは中国語から来ている。これが「マレーシア人っぽい」。

なんで混ぜるか。あるブロガーは「言語を混ぜると、マレーシア人ぽさが出て、可愛い感じになる」と言ってましたが、私もなんとなく、この感じがわかるようになりました。
この感じ、どうしても日本語には訳せないんです。

そして、それはすでに「マングリッシュ」として確立し、ウエブのライターに「マングリッシュで文章が書けること」という条件がついたりする。

翻訳には限界がある

つまり、翻訳にはやっぱり限界があるんですね。
だからこそ、マレーシア人は次々にいろんな言語に手を出しては、その世界を知ろうとするのかな。で、あえてマイナー言語の日本語を学ぼうとする人も多いのかも。

「知ろうとすること」って学問の第一歩です。

私がマレーシアに惹かれる背景には、語学に敬意を評して、勉強し続ける人が多いことがあるかもですね。

「精神的に向上心のない者はばかだ」という厳しいセリフが夏目漱石の「こころ」にありました。私、マレーシア人たちの好奇心の強さ、いくつになっても新しい言葉を勉強しようとする人たちの多さには、いつも感心します。

私もマレー語と英語、がんばろーと思いました。

それではまた。

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