ものごとを「どうでもいい」と思える人、思えない人
こんにちは! 野本です。本日は短いコラムです。最近、「寛容な人は心が広いわけではない」というツイートがありました。
今日はこれをちょっと考えてみます。
寛容な人は実は何も考えていない説
寛容な人=他人に興味がない説、面白いですね。
マレーシア人の多くはまさにそんな感じで、あんまり他人を見てませんし、他人に深入りしない人が多いですね(もちろん、例外はありますが)。
「他人は違う人なので、わかり合うことは難しい」と知っているのかな、と。そして細かいことをあまり気にしません。
多分、根っこの優しさで言ったら、どの人種も変わりないのです。
私もたまーに、優しいですねと言われます。しかし、実はテキトーなだけで、単純にいろんなことが「どうでもいいな」と思ってるだけだったりします。
人は、どうせ分かり合えないと諦めてます。
たまに批判が来ることがあるのですが、割とスルーしてしまいます。
どう思うかもその人の自由。仮にその人が何か誤解してるとしても、そのままで良いかなっと。街行くすべての人に、100パーセント理解してもらうのはどのみち無理です。その割合が、10パーセントだろうが90パーセントだろうが、そんなに変わらないかなっと。
日本人同士ても異文化に生きている人はいるわけで、100パーセントの理解は土台無理なんですね。
他人の気持ちが気になる人たち
と言っていたら、こんなメッセージをいただきました。
このかたは他人の気持ちが、「気になってしまう」と。そして関係ないことも知りたくなる、と。聞けば、生まれつきのものなのだそうです。考えないようにすればいいのでは? と思うのですが、そうも行かないと。
けれど、考えようによっては、これも一つの能力ですよね。
鈍感な私には、とても真似できません。
例えば、お酌とかするのが上手な人っていますよね。相手がタバコ出したらさっとライター出すとか。お茶が減っていたらさっと継ぎ足すとか。
逆に羨ましいです。鈍感な私のようなタイプ、日本社会の一定の人たちをイライラさせている自覚があります。
逆に、日本からマレーシアに来てサービスにイライラする人も多く、みてると自分が怒られてるようでヒヤヒヤします。
要するに、他人に対してこういう気遣いができるというのは、日本社会では割と必要な能力なのかなっと。日本人同士でも、文化が異なるんです。
良いところと悪いところはコインの表裏
最初に就職した大手企業では、とにかく「他人への気遣い」を求められました。
次に、雑誌の編集部に移ったら、むしろ気遣いよりも寛容さが求められる世界でした。何しろ、締め切りを守らないのは当然。原稿を落とす筆者やら、締め切りに失踪してしまう社員やらがいました。
そしてマレーシアに来たら、別の意味でテキトーな感じの人が多く、「OKラー」でいろんなことが進んでいく。
良いところと悪いところって結局コインの表裏。
だから、自分の性質をよく知り、どこに自分を置いたら最大限に自分らしさを生かせるか、を考えた方がいいかもしれません。
それではまた。良い一日を!
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