「答えが一つの教育」が見失ってるもの

こんにちは!
今日は学校に疑問を持つ人、お子さんの教育をしている方へのヒントです。

先日の杉原さんのnoteに、「正解・不正解」を決める世界で育ってしまった弊害について書いてありました。

「それは正しい」「それは間違っている」。指摘だけならまだいいんですが、マジョリティの真善美の基準や価値観に照らして「間違っている」ものはだいたい「矯正」か「排除」の洗礼を受けることになる、日本とはそういう感じの国に、今の僕の目には映っています。
別に学校教育のせいにするつもりはないけれど、この「正解/不正解」を教える学校教育の価値を全身に吸い込んで成長した僕のような人間が、いろんな「失敗」を経た挙句の果てに「(正解の)自分を探す旅に出る」というような暴挙に出てしまうわけです。
(中略)
教養というのは、どこかでこの「正解/不正解」の二項対立から離れて、問いの次数を一時繰り上げることによって身についてゆくものだと思うんです。あるいは、そのような問いに対する答えを用意するための土台。

私も同じ思考経過を辿ったのでよくわかる。
正解があるに違いない」と思うので、焦るし、間違ってる他人に毎回イライラして勝手に苦しんでたようです。

無知が生み出すもの

息子はマレーシアで無認可のホームスクールに通っています。ここの先生たちが尊敬できるのは、みなさん「わからない」と平気でいうところです。

私が最近お気に入りの「サピエンス全史」に「近代科学は『知らないことを認めたから始まった』」って書いてあるんです。

近代科学は「私たちが知らない」という意味の「ignoramous」というラテン語の戒めに基づいている。近代科学は、私たちがすべてを知っているわけではないという前提に立つ。それに輪をかけて重要なのだが、私たちが知っていると思っている事柄も、さらに知識を獲得するうちに、誤りであると判明する場合があり得ることも、受け入れている。

「この世界のことは、何もわかってない」って言い出した人がいた。
それが科学者だったと筆者はいいます。

科学革命はこれまで、知識の革命ではなかった。何よりも、無知の革命だった。科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々の答えを知らないという、重大な発見だった。

なぜヨーロッパが科学を征服したのか?

そうそう、近代の科学者はなんでヨーロッパ人ばかりなのか? と私と息子はいつも疑問でした。

この本には「1775年にアジアは世界経済の8割を担っていた。」とある。
18世紀は、イスラム世界やインド、中国の方が栄え、テクノロジーが進んでいました。なのになぜヨーロッパが逆転したのか。

こう説明しています。

「科学者も征服者も無知を認めるところから出発した。両者は「外の世界がどうなっているか見当もつかない」と口を揃えて言った。両者とも、外に出て行って、新たな発見をせずにはいられなかった。

つまりヨーロッパの人たちは「無知を認める」態度に出たのです。これが大航海時代と、科学革命になった。冒険するためには「未知のものを認める」ことが必要だった。

では、アラビア人や中国人はどうだったのか。

それ以前の帝国における探求者は、自分はすでにこの世界を理解していると考えがちだった。制服とは単に自分たちの世界観を利用し、それを広めることだった。一例を挙げると、アラビア人は、自分たちにとって何か未知のものを発見するためにエジプトやスペインやインドを征服したわけではなかった。

アジアの征服者も、未知の領土拡大にはそこまで関心がないのです。

(中国の)鄭和は海を探検し、中国になびく支配者を支援したが、訪れた国々を征服したり、植民地にしたりしようとはしなかった。(中略)その後数百年間、中国の支配者はそれまでのほとんどの支配者のように、すぐ近隣の地域に対してのみ興味や野心を抱くにとどまった。

本書では中国が日本すら自由にさせたと言及しています。

そして、逆にヨーロッパ流帝国の真似をした、唯一のアジアの国が日本であると指摘しているあたり、面白い見解です。
(筆者はイスラエル人です)

「世界は大体わかっている」という態度が産むもの

これ、今も同じかもなーと思うのです。

日本にいても、「だいたい世界のことはわかってる」ってタイプの人がいるように、「世界をわかったもの」としてみるか、「未知のもの」としてみるかで人の態度は変わります。

「俺たちには世界はだいたいわかってる」なら「長老の知識をコピーする」暗記教育に落ち着いてしまう。

今の学校教育はこれ。

でも、ホントは親も先生も「わかってない」と認めることこそが、今でも学びの原点なんじゃないかなーと私は思うんですね。

科学者は普通、どんな理論も100パーセント正しいことではないと考えている。

ニュートンだって、アインシュタインだって、いかなる歴史書だって「これですべて解明した!」とは言ってません。後日、間違っていたと判明したこともある。

科学に本当も嘘もない。ある時点で「正解」とされてたものがひっくり返る。その繰り返しですよね。

ただ、長年つけてきた癖は、なかなか治らないです。

私も受験勉強を経て、「正解か・間違いか」「正義か・悪か」みたいな二元論で考えるクセがついています。答えはないことの方が多いと気づいたのは、毎回子どもから「おかーさん、本当にそうかな?」とツッコミを受けるから。

学問する人は、「正解」を求める学校や教育者に対する「反逆者」なのかもしれません。

それではまた!

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