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大浦天主堂の観覧ルートをイラストと写真でご案内します。案内図の番号は、記事内の見出しの番号に対応しています。
これからご訪問の方は参考にしていただけますし、ご訪問を終えた方には追体験としてたのしんでいただければ嬉しく思います。

番号順に、記事をわけて公開してまいります。



大浦天主堂境内図

1.信徒発見記念碑

1865年3月17日に、大浦天主堂において、プティジャン神父と浦上の潜伏キリシタンたちとが出会った場面が表現されたレリーフです。1965年の信徒発見100周年記念祭の折に製作・設置されました。
製作者は、南松浦郡有川村鯛ノ浦郷(現新上五島町鯛ノ浦郷)出身の中田秀和氏であり、彼の代表作の一つとして知られています。
プティジャン神父と潜伏キリシタンたちの出会いは、250年以上もキリスト教禁教下にあった日本に信者が存在したことが明らかになった事柄として、「信徒発見」と呼ばれています。

信徒発見記念碑

2.プティジャン司教像

1829年6月14日、フランスのロワール県に生まれたベルナール・タデー・プティジャンは、オータンの小神学校と大神学校で学び、1853年5月21日に司祭に叙階されました。
1860年にフランスから琉球王国で来日の準備を整え、横浜を経て1863年に長崎に到着しました。
ジラール神父から引き継いだ大浦天主堂の建設を完了し、献堂式から約1ヶ月後に、念願だった日本のキリスト教徒(浦上の潜伏キリシタンたち)との出会いを果たしました。
1866年に日本代牧区神父に任命され、横浜、長崎、大阪などにおいて、1884年10月7日に帰天するまで日本のカトリック信者を導きました。
墓所は浦上の潜伏キリシタンとの出会いの場である、大浦天主堂の床下にあります。

プティジャン司教像

3.聖ヨハネ・パウロ2世教皇胸像

1981年2月23日から26日、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、教皇として初めて日本を訪れました。
長崎では、浦上天主堂で訓話を行った後、長崎市営松山競技場で記念ミサを司式し、日本二十六聖人記念館や大浦天主堂などを訪問しています。
これを記念して製作・設置された胸像です。①と同じ中田秀和氏が製作しています。
ヨハネ・パウロ2世は、100回以上に渡って各国を訪問しており、他国の文化や他宗教との交流も積極的に行なったことで知られています。
ヨハネ・パウロ2世の功績の中で、とりわけ訪日後の1980年代後半の東欧革命期にもたらされた影響は多大なものでした。自身の出身国であるポーランドにおいて、当時民主化運動を主導した、労働者による自主的かつ全国規模の労働組合「連帯」を支援し、東欧民主化は1989年に実現しました。
台座には訪日当時に行った訓話の一部が刻まれています。

聖ヨハネ・パウロ二世像

4.十字架上のキリスト(大十字架)

境内の庭園にこの十字架が建てられたのは1881年12月17日のことでした。
大浦天主堂での信徒発見後に、日本人神学生3名が助祭に叙階されたのを記念し、プティジャン神父によって建立、祝別されたものです。
1970年の台風によって損壊し、修復されました。
建立当時の十字架は装飾が施されたものでしたが、修復の際に現在の形状になったようです。
石造りの台座と十字架に、鉄製のイエス・キリスト磔刑像が配されています。

十字架上のキリスト(大十字架)

5.ポワリエ神父の墓

ジャン・パティスト・ポワリエ神父は、1843年5月27日、フランスのロワール県に生まれました。
1866年に司祭に叙階され、その年の7月に日本に派遣され、明治初頭のキリスト教徒迫害を体験しました。
禁教令が解かれた後の1874年、伊王島に赤痢が発生し、それが神の島、外海、浦上に蔓延した際は、ド・ロ神父やローケーニュ神父たちをはじめ、救護活動を行いました。
その後も主に浦上地区での教理教育を指導し、1877年12月に浦上小教区の初代主任司祭に着任しました。
浦上天主堂建設地の購入や、女子修道会「お告げのマリア修道会」の前身となる「十字会」の設立など、多くの実績を残しました。
病を得て、1881年2月5日の日本二十六聖人殉教者の祝日に帰天しました。

ポワリエ神父の墓所

6.日本之聖母像

プティジャン神父と浦上の潜伏キリシタンの出会いの後、大浦天主堂には多くの信者たちが訪れました。
そのような訪問者のうち、ある地区より献金として大金を差し出す者がありました。
プティジャン神父らが受け取りを躊躇すると、信者らは「これはあなた様方に捧げるのではなく、天主と御母サンタ・マリアに捧げるのです。これで天主堂を飾ってくだされば本望です」と言ったそうです。
プティジャン神父は、この献金でフランスから聖母マリアの像を取り寄せ、天主堂の門前に据え付けて信徒発見の記念にしたいと考えました。
こうして、1867年6月2日の信徒発見記念式典の際、大浦天主堂の門前に聖母像が据え付けられました。
台座には日本語とラテン語で信徒発見記念の碑文が刻まれています。

【碑文】
表:慶応元年三月十七日/日本之聖母像/信徒発見記念
裏:IN MEMORIAM INVENTIONIS CHRISTIANORUM DIE XVII MARTII A.D.MDCCCLXV
(訳:キリスト教の発見を記念して/1865年3月17日)

7.中央大扉

創建時より正門の扉であったもので、表面には浮彫彫刻が施されています。
従来、この扉が開かれるのは祭式などが行われるときのみで、堂内へは左右の出入口が使用されていましたが、現在、拝観時間内は開放されています。
また、同所に取り付けられたガラス戸は、観光客が増加した1950年代後半、閉め切ったままでも拝観が可能なようにと設置されたものです。

中央大扉

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