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大浦天主堂は、パリ外国宣教会のフランス人司祭らによって1864年に創建されたカトリック教会です。
日本の全てのカトリック教会が破壊された禁教令の時代以降、近代における教会建築は、横浜天主堂が先例となりました。横浜天主堂は1906年に旧居留地(山下町)から山手町に移転し、建替えられたため、大浦天主堂は現存する国内最古の教会建築です。
1879年に増改築がおこなわれ、内部、外観ともにゴシック調に統一された現在の姿になりました。1933年に国宝に指定され、1953年には国宝の再指定を受けています。

国宝 大浦天主堂

01. 日本の開港とカトリック司祭の来日

大浦天主堂の建設より遡ることおよそ250年の1597年2月5日、禁教令下に捕えられた26人のキリシタンが長崎で処刑されました。
これは当時の為政者である豊臣秀吉が下した、統治者による初のキリスト教への迫害でした。
1587年に発布した伴天連追放令から10年間、統治者として宗教間の摩擦、南蛮貿易による実益、人身売買問題など様々な状況で揺れ動き、疲弊を重ねた先に起こったサン=フェリペ号事件が、秀吉をこの行動(迫害)に向かわせたと考えられます。
日本の歴史上、キリスト教の信仰を理由として処刑が行われたのはこれが初めてのことであり、日本における初の殉教者となった26人は、のちに聖人に加えられ『日本二十六聖人』と呼ばれるようになります。
それから約250年の時を隔て、1858年の安政五ヶ国条約締結により日本の5つの港(横浜、神戸、長崎、函館、新潟)が開放されたあと、ローマ教皇庁よりパリ外国宣教会のフランス人司祭らが日本に派遣されました。
1862年1月、同宣教会のジラール神父(Prudence Seraphin-Barthelemy Girard 1821-1867)によって、居留地外国人のための教会として横浜に聖心聖堂(横浜天主堂)が建設されます。この聖堂建設を記念し、当時のローマ教皇ピウス9世は1597年に日本で殉教した26人のキリシタンを聖人の列に加えました。
横浜天主堂の創建から約1年後、同宣教会よりフューレ神父(Louis-Theodore Furet 1816-1900)とプティジャン神父(Bernard Thadee Petitjean 1829-1884)が長崎に派遣され、聖堂建設事業に着手します。

02. 外国人居留地に聖堂が建てられる

1863年1月22日、開港後の長崎にフューレ神父が横浜を経て到着し、聖堂建設のための土地の選定にかかります。その当時、すでに外国人居留地内の敷地は商人たちでいっぱいになっており、土地探しは容易ではなかったものの、長崎奉行の計らいにより大浦南山手居留地に隣接する場所に土地を入手することができました。フューレ神父は建設資金の募金活動や居留地に暮らす外国人たちとの交流、購入した土地の整地などをこなしながら聖堂建設にむけ準備を進めます。
同年8月初旬にプティジャン神父が長崎に到着するものの、プティジャン神父の関心は聖堂建設そのものよりも、26人の殉教地探索、キリシタン時代の信者の子孫探索に傾いていました。この当時はまだ26人の殉教地は特定できていなかったのです。
プティジャン神父の来崎から2ヶ月ほどで聖堂の設計はほぼできあがり、フューレ神父は工費の算定や契約に向けた準備を進めていきます。翌年1864年1月ごろ、横浜から日本布教総責任者のジラール神父が来崎、熊本県天草出身の小山秀之進(大工棟梁)、兄の小山良輔(頭領)と契約を交わし、聖堂建設の着手に至りました。
ジラール神父と入れ替わりでプティジャン神父は横浜へ赴任となり、建設工事はジラール神父監督のもとで進められました。8ヶ月間の滞在ののちジラール神父は横浜に帰任し、それに伴いプティジャン神父が長崎に戻り事業を引き継ぐのですが、その頃にはフューレ神父が日本での布教などに対する意欲を失いかけていました。1864年10月には、フューレ神父は聖堂の完成を前に1年間の休暇を申し出て帰国してしまったため、それ以降プティジャン神父は一人で工事の監督にあたりました。
請負人である小山一族は、聖堂建設と時期を同じくして大浦居留地の拡張工事をも請け負っており、聖堂工事が停滞、さらにプティジャン神父は工費支払いの資金繰りに困窮していました。
そんな折、長崎奉行所から外国語学校でのフランス語教師の依頼が入ります。プティジャン神父は聖堂建設工事の停滞を理由に奉行所の求めを断りますが、奉行所は工事進捗のための職人を手配することによって双方の望みが叶えられるよう働きかけをおこないました。
職人の増員により工事は急速に進行し、1864年12月29日に聖堂が竣工、翌年1865年2月19日にジラール神父司式による献堂式が執り行われました。この聖堂は日本二十六聖人を守護の聖人とし、『日本二十六聖殉教者聖堂』と名付けられました。
献堂式は長崎港内に停泊していたフランス、イギリス、オランダ、ロシア船の艦長らがそれぞれ兵を従えて参列し、祝砲を鳴らす盛大なものでしたが、フランス領事に招待を受けていた長崎奉行は代理を遣わすのみで参列しませんでした。また、建設中に大勢いた見物人の姿が全く見られなかったのは、奉行所から参観禁止が命じられたためと考えられています。

03. 潜伏キリシタンによる信仰告白とその後

献堂式から約1ヶ月を経た1865年3月17日、多くの参観者にまぎれた浦上のキリシタンたちの一人が、聖堂内で祈るプティジャン神父に近づき、「私たちもあなたと同じ信仰をもっています」と告げたことから、禁教令下にキリスト教の信仰が生き続けていたことが証明されました。プティジャン神父と潜伏キリシタンたちの出合いは互いに大きな喜びをもたらしましたが、続く徳川幕府の禁教政策のもと、1867年には浦上で3千名を超える信者が捕えられ、西日本各地に移送される『浦上四番崩れ』と呼ばれる事件が起こります。
明治初期まで続いたこのような迫害は、居留外国人から抗議を受けるなど、外交問題にまで発展しました。
明治に入りしばらく経った1873年に禁教令を示す高札が撤去され、信仰が黙認されると、信者数の増加で教会は手狭になり増改築の必要に迫られました。
この時期に長崎に赴任していた司祭は、浦上を担当していたポワリエ神父、出版や印刷事業を手掛けていたド・ロ神父です。ポワリエ神父、ド・ロ神父の両司祭のもと工事を担当したのは、浦上の大工棟梁・溝口市蔵、天草の大工・丸山佐吉、その他の職人たちでした。
1879年に着手したその増改築工事は、まず外壁をとり、正面を約6m、左右を約2m、後方は約3.6mに拡張するものでした。これにより聖堂の面積は当初の倍の大きさになり、外壁は煉瓦造り漆喰仕上げの白い外観となったのです。
身廊部分の屋根の高さは創建時から変わらず、傾斜を緩くすることで脇祭壇部分の空間を広くとり、身廊部と同様のリブ・ヴォールト天井が取り付けられました。古典、ゴシック、和風建築が混合された創建時の建物から、内外ともにゴシック調に統一され、尖塔部分の外観も大きく様変わりしています。
改築された聖堂は、1879年5月22日、その当時は司教として大阪に赴任していたプティジャン神父によって祝別されました。
1933年には、我が国の洋風建築輸入の初頭を飾る代表的な建築物であるとして、文部省により1月23日付で国宝に指定されるも、1945年8月9日の原爆投下は大浦天主堂にも影響を与えました。爆心地からは直線距離にして約4km離れていたものの、屋根や正面大門扉、ステンドグラスその他の部分に甚大な被害を受けました。創建から80年を経た老朽部分の補修を兼ねた工事が行われ、5年がかりで1952年6月30日に修復が完了しています。この修復工事完了後、日本国憲法のもと文化財保護委員会により1953年3月31日をもって国宝の再指定を受けています。

04. 大浦天主堂という遺産

国宝の指定を受けた大浦天主堂は、献堂から100年近くの間、長崎における司教座の役割を担ってきました。布教長ジラール神父の時代から、プティジャン神父が日本の使徒座代理区長、近畿以西の代理区長としてけん引してきた長崎のカトリック教会は、1891年に長崎司教区に昇格します。さらに1959年には長崎大司教区に昇格し、山口愛次郎司教が初代長崎大司教に任命されたのちの1962年、司教座聖堂は浦上天主堂に移され、大浦天主堂は司教座の任を解かれることとなりました。
この頃には大浦天主堂を訪れる観光客が増加しており、それに伴い教会における典礼に支障が出るなど、信徒の生活への影響が次第に大きいものとなっていました。
そのような実状を考慮し、創建から110年が経った1975年、隣接した土地に大浦教会が新築されています。日常的な教会としての役割は新しい教会に引き継がれ、大浦天主堂は歴史を伝える施設としての役を引き受けた建造物となりました。
2018年には世界文化遺産『長崎と天草地方潜伏キリシタン関連遺産』を構成する資産のひとつとして世界遺産に登録され、日本国内及び海外からの注目を再び集めるようになり、現在も多くの観光客を迎えています。日本国内の旅行者、巡礼者、全国各地からの修学旅行生、また海外からの来訪者も多く見られる、長崎の主要な訪問地のひとつであるといえます。
大浦天主堂は、国内に現存する最古のカトリック教会であり、250年余り続いた禁教の中でも信仰が生き続けていたことが証明された場所であり、その後にも続いた迫害や原爆投下による損傷からの復旧を経た、歴史上でも重要な建造物です。日本が近代に向かう激動の時代とともに存在した、数えきれない物語が詰まった特別な場所であることは確かです。
1981年にはローマ教皇ヨハネ・パウロ二世の初来日時に訪問を受けた場所の一つでもあり、これらは長崎の、とりわけカトリック信者たちにとって深い意味を持っています。
ここに名前の記されていない、さらに多くの殉教者たち、司祭とそして信者たちの存在と、彼らのさまざまな活動、生き方の一つひとつは単なる過去の出来事ではなく、またカトリック信者であるなしにかかわらず、現在のわたしたちにつながるひと筋の道です。
大浦天主堂は国内最古の教会、世界遺産などといった肩書きにとどまらず、大きな変化を経てきた日本の歴史をさまざまに伝えています。この場所を訪れてみたいと思うきっかけが何であれ、一人ひとりが耳を傾ける姿勢を持つ限り、大浦天主堂は歴史を伝え続けます。

【参考文献】
『カトリック大浦教会 百年の歩み』(カトリック大浦教会)
『大浦天主堂』(桐敷真次郎)
『主の道を歩む人』(中島政利)
『旅する長崎学 キリシタン文化③』(長崎文献社)
『日本二十六聖人 長崎への道』(カトリック中央協議会)
『切支丹の復活』(浦川和三郎)
『長崎の教会群とキリスト教関連遺産 構成資産候補建造物 調査報告書』(長崎県世界遺産登録推進室)
『聖心聖堂百二十年史:横浜天主堂から山手教会への歩み』(カトリック山手教会)
『横浜市史稿 神社編・教会編』(名著出版)
『パリ外国宣教会 宣教師たちの軌跡』(脇田安大)

【参考論文】
原衣代果、石川恒夫 日本二十六聖人殉教記念施設にみる今井兼次の建築思想に関する研究(その1)
澤護 横浜居留地のフランス社会(1)

【その他】
『カトリック教報』(カトリック長崎大司教区)

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