洛中洛外を(もっかい)(一人で)歩く 「本能寺の変」をたどる
2009年4月から1年間、京都新聞市民版で連載した「中村武生さんとあるく洛中洛外」。京都在住の歴史地理史学者の中村武生さんの案内で、京都のまちに残る秘められた歴史の痕跡を紹介する内容だった。連載当時、中村さんと京都のまちを歩いた担当記者が、今度は一人でもう一度、興味のむくままに歩いてみた。
始めるにあたって
「また『中村武生さんとあるく洛中洛外』みたいなのやってよ」。こうした声掛けをこの12年の間、社内外でいろんな方からいただいた。とはいえこの間、筆者は紙面編集部門や運動部などで、その日の仕事に追い回され、新たな企画を立ち上げる余裕もなく過ごしてきた。そんな折、「本紙のnoteで何かおもしろいことをやってほしい」と依頼された。
悩んだ結果、おもしろいかどうかは分からないけれど、もう一度、京都の歴史歩きをやってみたいと思うに至った。だが、ご多忙であろう中村先生に再度、薄謝で依頼できる根性は、筆者にない。多分、予算もない。それでは一人でやってみよう。第一線の研究者が監修してくれた以前の連載の足元に及ぶとも思えないが。京都のまちを歩いてみよう。もう一回。一人で。note読者のみなさんが、スマホ片手に京都のまちを散策する一助になるのであれば、なおさらの喜びだ。
その壱 「本能寺の変」を当時の資料からたどる
初回はキャッチーな内容がいい。そもそも新聞は、さまざまな決まり事で成り立っている。なぜこの記事をいま掲載するのか、そんな理由も必要だ。この連載では、そこらへんも気にする必要はないと思う。なら、初回のテーマは戦国期か幕末に限る。歴史好きのハートをがっちり掴んで離さない2つの時代。とりわけ戦国期最大の事件ともいえる「本能寺の変」が良いだろう。
ざっくり「本能寺の変」のあらましについてご紹介しておこう。時は1582(天正10)年6月。その3ヵ月前に甲斐・武田氏を滅ぼした織田信長は、四国の長曾我部元親を屈服させるために3男の信孝を総大将に、重臣・丹羽長秀らを据えた軍勢を編成。大阪湾周辺で、四国への渡海に備えていた。一方で信長自身は5月29日、中国で羽柴秀吉と対峙する毛利氏討伐の前段階として、わずか20~30人程度の人数で、京に入っていたようだ。
6月1日夜、明智光秀は中国攻め助力のため軍勢1万3000(異説あり)を率いて丹波・亀山城を出陣、その途上で光秀は謀反の意思を重臣に告げ、京・本能寺に向かう。軍勢は2日午前4時ごろに本能寺を包囲、信長は切腹し、午前8時ごろには戦闘は終了。正午過ぎには、信長の長男・信忠が避難していた二条御新造(誠仁親王御所、現在の国際マンガミュージアムあたり)を攻め、信忠も自刃し、織田信長・信忠父子はともに死亡した。
本能寺はどこにあった?
現在の本能寺は京都市役所近くの寺町通御池下ルにあるが、これは豊臣秀吉が命じた都市改造により移転させられた場所で、変の当時は、東西は西洞院ー油小路、南北は六角ー蛸薬師の寺域だったというのが定説だ。現在、油小路蛸薬師下ルの京都市の複合施設敷地内に、「本能寺跡」と由緒が記された碑が立っている。
2007年に行われた境内推定地の発掘調査では初めて、変で焼けたとみられる瓦に加え、堀や石垣跡も見つかった。この時の調査地は寺域の北西寄り、信長が滞在した「本丸」と推定されている。周辺の発掘調査では、外縁部と「本丸」周囲に堀跡が確認されている。本能寺は法華宗だが、戦国期において法華宗寺院は1536(天文5)年の「天文法華の乱」などで苦しめられた経験から、周囲に堀を巡らせた城郭的要素を持っていたとされる。信長もその防御性に着目し、京の宿舎に本能寺を選んだのかもしれない。
現場の状況は
さて、明け方の静寂を破り鬨(とき)の声が挙がった本能寺の変だが、当時の資料はどのように伝えているのだろう。まずは、宣教師ルイス・フロイスが記した「日本史」から見てみよう。フロイスは1563(永禄6)年に修道士として来日し、九州から京に入ると、信長の庇護(ひご)の下、活動を続けた。「日本史」は信長が死んだ翌年に編纂を始めた。変の際には、フロイスは九州にいたが、現地にいた修道士らからの手紙や聞き取りで得た情報を、書き起こしたと思われる。
当初、光秀が本能寺を取り巻いた際には〈ほとんどの人には、それをたまたま起こったなんらかの騒動くらいにしか思われず〉(引用は「回想の織田信長 フロイス『日本史』より」(中央公論社)から)という状況だったようだ。
〈我らの教会は、信長の場所からわずか1町(ルア)距てただけのところにあったので〉、数名のキリシタンが教会つまり「南蛮寺」に駆け込み、折から早朝ミサの準備をしていた司祭に、変事を告げたとある。そして〈まもなく銃声が響き〉炎が南蛮寺からも見えたという。地図の通り、本能寺と南蛮寺は近い。確かに伽藍(がらん)を焼く炎は見えたことだろう。
フロイスの「日本史」では、南蛮寺が京の大工たちによって華麗に建築されたことや、変の後に安土にいた宣教師や神学校(セミナリオ)の子弟らが「琵琶湖にある島(沖島)」に避難する際の受難などが描かれ、とても面白い。なので、関心のある方は上記の「回想の織田信長」を手に取られることをおすすめする。
続いて、信長の側近だった太田牛一が記した「信長公記」を見てみよう。「信長公記」は書かれた内容に信頼性が高く、信長研究の基礎資料とされており、一次資料(状況に直接、接した人が記したもの)に準じるとされている。牛一は変で生き残った人たちに話を聞いているようで〈信長も御小姓衆も、当座の喧嘩(けんか)を下々の者ども仕出し候〉とあり、当初は「朝から道端でけんかなんかして」という程度の認識だったとわかる。
ところが鬨の声と銃声がして、謀反と分かる。信長は森成利(蘭丸)から光秀の軍勢と知らされると「是非に及ばず」と答えて、弓や槍(なぎなたとも)で戦ったのち、奥に退いて切腹したとある。一部始終を見ていた女房が話した内容のようだ(引用は「信長公記 戦国覇者の一級資料」(和田裕弘著、中央公論社)から)。
光秀は現場にいなかった?
さて、これまで私たちは「光秀の軍勢」と考えると、必ずそこに光秀がいるものだと思っていた。ところが、昨年(2021年1月)に新たな学説が提示された。光秀の重臣・斎藤利三の3男・利宗が、光秀は洛中にはおらず「鳥羽ニヒカエタリ」と自身の甥に語った、と加賀藩の軍学者が記した古文書に記載されていたのだ。
鳥羽といえば、本能寺から南に8キロほど。随分と距離があるが、確かに1万を超える軍勢で本能寺を取り囲むよりは、本隊を少し離れた場所に配置する方が理にかなっているのかもしれない。ちなみにこの文書、光秀が重臣に謀反を漏らした状況や、亀山城を進発した日時などにも定説と違いがある。研究が進むことに期待したい。
で、どうして起きたのか
本能寺の変はなぜ起きたか。「戦国期最大の謎」などと言われたりもして、それはもう、さまざまな考察や推論が世の中にあふれている。「朝廷関与説」「イエズス会関与説」「本願寺関与説」「秀吉黒幕説」など枚挙にいとまがない。「森蘭丸黒幕説」や「伊賀忍者実行犯説」まであったりするので、「UFO犯行説」をネットで検索してみたが、さすがにそれはヒットしなかった。
筆者はなんとなく行き当たりばったりで計画性を感じないことから、「光秀単独説」を支持したい。福島克彦さんが「明智光秀」(中央公論新社)で指摘されているように、四国征伐をめぐる織田家家中の派閥争いでくすぶっていた光秀の心の炎が、信長・信忠父子の上洛を絶好機ととらえて燃え上がったと考えるのが妥当だと思う。
それでもやはり、謎は残る。でも、謎は謎でよいと思う。そこにさまざまな思いを投影させることができるのが、歴史ファンの特権なのかもしれない。ではでは、また次回に。
佐藤知幸