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カレーが嫌いだと言わせてくれ


こんにちは、なっつです。

みなさんカレーライスは好きですか?

私は好きです。


カレーというと教科書にのっていた重松清の「カレーライス」を思い出しますね。

(確か小学5年か6年の国語の教科書にのっていたはず…)

甘口にするか中辛にするか、みたいな話でした。まあいいや。


もうひとつ思い出すのが、小・中学校のクラスメイトだったAちゃんのことです。


Aちゃんはカレーライスが苦手でした。


想像がつくかもしれませんが、行事でキャンプをしたり遠足に行ったりするとき、だいたいみんなで作るのはカレーなんですよね。


アレルギーならまだしも、ただ単に苦手なだけだから一人だけ特別待遇というわけにもいかず、

Aちゃんはいつも「(なんでまたカレーやねん)」という顔でモソモソとスプーンを動かしていました。


ところで、私はクリームコロッケが苦手です。


特にスーパーのお惣菜コーナーに置いてあるクリームコロッケは頑張っても4分の1しか食べられません。

(でもマクドナルドのグラコロは食べれます。なんで?)


いきなり何の話やねん、と戸惑われたかもしれませんが、

これって「生きづらさ」の性質をよくあらわしているよな......

とガイダンス回が終わったあとに思い、例として出してみました。


今回のリアルゼミでは「普段感じている生きづらさ」をみんなで話す時間がありました。

「すぐ顔が赤くなっちゃう」とか

「しっかりしてると言われる」とか

「見た目で性別を決められる」とか

色んな意見が出たんですが、Aちゃんなら「カレーが苦手なこと」と答えたかもしれませんね。



では私は「クリームコロッケが苦手なこと」が生きづらさかというと、そんなことはありません。


なぜならAちゃんのカレーと違って、クリームコロッケを食べなきゃいけない場面なんてそうないから


ウキウキで行った洋食屋さんの本日のランチがクリームコロッケだった、
みたいなことはありますが、他のメニューのハンバーグやエビフライを頼めば済む話です。


キャンプでクリームコロッケをつくることなんてないし、Aちゃんみたいに「苦手なのに食べないといけない状況」が訪れたことはありません。

カニクリームコロッケ


カレーが苦手なAちゃんとクリームコロッケが苦手な私、どちらも「嫌いな食べ物がある」ということは同じです。

とても個人的なこと。


でも社会全体でみると、「カレーが苦手な人」というのはおそらく少数派です。


カレーが好き、あるいは特別好きじゃなくても普通に食べられる人からしてみると、

野菜も肉も炭水化物も一気にとれて、
切って水とルー入れて煮込むだけで完成して、
日持ちがして、
しかもおいしいカレーを作るのが一番楽で手っ取り早い。

だからキャンプでも「みんな好きだしカレーで良いよね」となる。


その「みんな」にAちゃんは含まれていないけれど、

Aちゃん以外は「カレーで良い」と思っているから、

カレーが苦手な人の存在なんて想像されずに話が進んでいく。


あるいは想像はするけれど、

「でもほとんどの人はカレーが良いって言ってるからカレーにしよう」となってしまう。


だからAちゃんは「カレーが苦手だから他の料理が良い」とは言えず、仕方なく好きでもないカレーを食べる。


Aちゃんの生きづらさが生まれる原因を整理するとこんな感じでしょうか。


ガイダンス回でゲストの村田先生は

「社会の規範から外れたときに生きづらさはうまれやすく、その規範は『多くの人がそう思えるかどうか』で決まる」

ということをおっしゃっていました。


Aちゃんの例でいうと、「カレーライスで良いよね」ということが社会の規範で、Aちゃんはそこから外れているから生きづらさを感じやすい。


でも「クリームコロッケで良いよね」ということは社会の規範になっていないから、私は生きづらさを感じない。


つまり生きづらさっていうのは、個人の好みや性質がどうこうというよりも、

社会によって決められる部分が圧倒的に大きくて、だからこそ厄介で、どうしようもなくて、しんどいのだと思います。


「恋愛したことあって当たり前」
「予定は変更するもの」
「大学卒業したら就職しないと」
「大人なんだから」
「じっと座って話を聞け」
「家族を大事にしなさい」…


私たちは社会の「当たり前」や「普通」や「こうあるべき」に日々さらされながら生きています。

ほぼ初対面のグループで「普段感じている生きづらさ」をテーマにディスカッションをしたところ、30分で終わらないほど白熱しました。

その事実が、どれほど私たちが生きづらさを感じながら生きているのかを、よくあらわしているような気がします。


そんな生きづらい私たちは、どうやったら生きやすくなるのでしょう。

これもディスカッションで様々な意見が出ました。

「困っていることをまず伝える」「相手を知ることが大事」「理解できなくても非難しない」…などなど。

なかには「そもそも生きづらさと生きやすさを結びつけるのが当たり前になっていることがすでに生きづらい」という意見もありました。


村田先生は

共感しすぎず」、「僕のことは僕に聞いてもらえること」かもしれない、

とおっしゃっていました。

この「共感しすぎない」というのは、とても大切な視点ではないでしょうか。

よく「人の気持ちが分かる人になりましょう」みたいなことが言われますが、それってとても怖いことだと思うんです。

相手の気持ちが「わかるかわからないか」という基準で物事を考えてしまうというのは、「わからないからお前の意見は聞かない」と相手を排除してしまう可能性を大いにはらんでいます。

「自分がされていやなことは人にはしない」というのも同じですね。自分がされて嫌じゃなくても、相手が嫌だといったらしてはいけないはずです。


結局、どれだけ相手のことをわかろうとしても、その人のことなんてその人以外わからない。


だったら開き直って「わからん!」と言える社会の方が楽じゃないでしょうか。


でも、だからって排除するんじゃなくて、ちゃんとその人の声を聞いて、わからないなりに対応を考えることが大切だと思います。


Aちゃんの気持ちはわからないけど、
キャンプによく出るメニューで好きなものを聞いて、
カレー班と焼きそば班に分かれて作ってみる、とか。


車いすで生活する人の気持ちはわからないけど、
必要な場所を聞いて、
エレベーターを設置できないか考えてみる、とか。


予定変更が苦手な人の気持ちはわからないけど、
何日前までなら安心できるか聞いて、
3日前までに決まったことは変更しないように努力する、とかとか。



多数派の人たちにとってはめんどくさい作業かもしれません。

お金、時間、現実性、色んなことを考えないといけない。


でも「その人の声をちゃんと聞ける社会」というのは

誰が少数派になっても安心して声をあげることができる

という大きなメリットが生まれます。


すべての物事において必ず多数派である人なんていないんですから

「その人の声」を大事にする社会は、「私」を大事にする社会

にもなるんじゃないでしょうか。



綺麗ごとかもしれません。


でも何も考えないよりは、確実にマシだと思います。



そう信じて、「カレーが嫌いなんだ」と言われても、
「じゃあクリームコロッケでも食べる?」と言えるような、
サラッとした大人になりたいです。


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さて、次回はまだ自己紹介していなかった運営メンバーの文章を投稿します。
これまでのどの自己紹介文とも違う、独白のような文章を楽しみにしていてください。


その次は10/25(日)に開催される「きょうだい×映画」回の告知noteを投稿します。
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ではまた。風邪にはお気をつけて。

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