見出し画像

京都工芸研究会ロング・インタビュー #004 松田聖さん(金属工芸)

京都工芸研究会では、ベテランの会員さんに工芸の仕事やこれまでのあゆみについてじっくりとお話を伺う「ロング・インタビュー」を連載しております。
第四弾は、襖引手や文化財修復、修理、社寺仏閣の錺金具製造に加えて、現代の生活様式に合わせたデザイナーとの新商品開発やフルオーダーメイドの美術工芸品の製造、現代建築に合わせた建築金物などの製造にも取り組まれている錺屋(有)松田を訪問し、松田聖(潔祀)様からお話を伺いました。
現在、松田さんは京都工芸研究会の委員長(2023年〜)にご就任いただいており、文化庁(選定保存技術団体)一般社団法人伝統技術伝承者協会の理事長や、京都金属工芸協同組合の監事も務めておられます。
※記事及び掲載画像の著作権は、京都工芸研究会または錺屋(有)松田に帰属します。許可の無い転載、2次使用を禁じます。

松田聖氏
  • 錺屋(有)松田の歴史

  • 学生から、八代目へ

  • 地域に育てられた少年時代と父の影響

  • ピンチをチカラに

  • これからの金属工芸

  • 縁が紡ぐ仕事、仕事が紡ぐ縁

  • これからの自分、これからの時代

  • 「出会いの『あい』は、『愛』である」

錺屋(有)松田の歴史

編:錺職人としての創業は、文化6(1809)年とのことで、聖さんで八代目なのですね。

松田:ええ、祖父に聞いたところ、三条白川近くに300年以上続くお寺があって、そこに初代・錺屋金五郎のお墓があります。元々は、忠臣蔵の頃に赤穂から浅野家家臣として京都へ来て、四十七士になれず、しばらく職人として身を隠しているうちに、いつの間にか職人になったらしいです。そして、明治になって元々の姓の「松田」に戻したそうです。

編:京都の伝統的な企業は代々お名前を襲名されることが多いですが、錺屋松田さんはお名前の襲名は、されないのですか?

松田:しませんね。だって“金五郎”だったら笑っちゃうでしょ(笑)。元々、錺屋が屋号やったから、苗字を錺屋に変えても良いのですが、領収書もらう時に説明が面倒くさくて(笑)。

編:(一同笑)お名前に「潔祀(きよし)」の表記もありますが……

松田:潔祀は「作家名」として、職人としての仕事と区別するために使っています。本名は「聖」のままですよ。

編:松田さんのフルネーム(松田聖)でネット検索すると、「松田聖子」さんがヒットしてしまって……

松田:そうなんですよ(笑)。だから早く検索エンジンで松田聖子を抜いて、トップで表示されることが密かな目標なんです。くしくも同い年ですしね……大学のクラブでは、いつもいたずらでロッカーの名札の後に「子」が付け足されてました(笑)。

松田氏の作品(二条城 襖引手金具)
©️錺屋(有)松田

学生時代から、八代目へ

編:家業を継ぐことは、学生時代から決めていたのですか?

松田:いえいえ、大学入学の時点では、まだ決めてなかったんです。
高校は洛南高校でしたが、入学時に同級生の目つきを見たら「こりゃ、敵わんわ」と早々に自分の実力を悟りました。大学受験では家族から「絶対に浪人したらあかん!」と言われて、なんとか佛教大学に引っかかったんです。佛大は、のんびりした楽しい雰囲気でしたが、頑張って1、2回生で全部の卒業単位を取得して、3、4回生は興味のあるゼミに打ち込みました。

編:大学のクラブは、何をされていたんですか?

松田:ユースホステル部です。山歩きをしてユースホステルに泊まって、ミーティングリーダーなどをする部活です。ワンダーフォーゲル部までいかないカジュアルな活動ですが、私は元々「人との偶然の出会い」が好きな性格なので、楽しかったです。

大学2回生の時に「卒業後は家業を継ぐ」と決めてからは、もっと世間を広く知らなくてはと思い、いろんなアルバイト(ホテルのウエイター・針販売・旅館住み込みなど)も経験しました。

編:家業を継ぐことに、迷いや葛藤はありましたか?

元々、父方の親類は、職人さんの家系なんです。母親には、いつも「職人なって土日も関係なく朝から晩まで働いてもお金にならんのに。」って言われていました。母方の親戚は金融関係の仕事で、そこを目指せとも言われていて、一時期は迷ったんです。そんな折、叔父さんに「お前、銀行員になるのなら応援してやっても良いけど、迷っているなら中途半端な仕事をすることになるのでは?」と見抜かれていました。
「継ぐのなら、父親のような、良いモノを作る職人を目指せ」って励まされました。

地域に育てられた少年時代と父の影響

編:松田さんは、いつでも明るくニコニコされている印象があって、ご苦労やお疲れを感じさせませんが、子供の頃はどんな少年だったんですか?

松田:いやいや、私だって疲れて不機嫌になることだってありますよ(笑)。でもこの気質は、私が生まれ育った環境からきていると思います。家業が忙しく、家族は皆忙しくて遊んでくれませんでした。だから、近所の方々が面倒見てくれたんです。隣のお兄ちゃんとか、向かいのお姉ちゃんとかね。バット持って、トラックの荷台に乗って「野球行くぞ!」とかね。私のコミュニケーション力は、両親からの教育というよりも、近所の人に培われたものだと思います。町内は、運動会やお祭りなどでもがっちり団結していましたね。
小・中学校でも学級委員やっていて、人の輪に入ることが好きだったのかもしれません。でも、私自身はおっちょこちょいな性格で、小学6年時の通信簿に「やっと落ち着いてきましたね」って書かれていたのを憶えています(大笑)。

編集:お家ではどのようなお子さんだったのですか?

松田:朝起きた時からキンキンという金槌や鑢の音が響く家に育って、子どもの頃から「お金っていうものは手を動かして稼ぐもの」という考えが染みついていました。当時は、自宅近くに工房がありましたから、子どもの時から職人の英才教育を受けていたってことになりますかね(笑)。

編:その頃から自分が「跡継ぎになる」という思いはあったんですか?

松田:木槌が持てるようになった小学生の頃から、手伝いしたらお小遣いあげるよって言われ、10円とか20円貰ってね。中学生になった頃には、「他にアルバイトに行くんだったら、うちで働け」って父親に言われていました。
そうそう、小学4年生の夏休みの宿題で「救急箱」を作ったことがあって、父親が手助けのつもりで手製の蝶番を仕込んだり、赤い十字マークも金属工芸で作って、結局父親がほとんど作っちゃって、いつのまにか職人レベルの救急箱になっていましたね(笑)。

編:ものづくり一家らしいですね(笑)。

松田:父親は、本当に器用な人でした。伏見大手筋に模型屋さんがあって、よく連れて行ってもらいました。そこには父親が真鍮の板でイチから作りあげた「真鍮の電車」が飾ってあって、息子として誇らしかったですね。工房の床下にも、車両模型がいっぱいありました。今思えば、仕事で忙しかった中、いつ製作してたのか…?って感じですが(笑)。
電車だけじゃなくて、ゴム動力の模型飛行機の大会があってね、それに出場もしました。
父親が蝋燭の火で竹ひごを炙ったり、コツを全部教えてくれました。手作りの遊びの楽しさというか、そんなことが今に繋がっているのかな…父親からの影響が一番大きいと思っています。
父親は技術屋というか職人気質で、仕事や勉強に熱心でした。私に対しては「仕事は見て、自分でやってみて覚えろ!」とよく言っていましたが、ほとんど怒られたことはないですね。父親はいつも笑顔でしたね!

編:お父様は、職人一筋だったんですね。

松田:いえ、一時期、祖父が戦争に出征してる時期だけ松下電器の門真工場で働いていたそうです。「その時期は楽しかった」と話していたのを憶えています。父は「先を見据えて備える」という資質もあって、うちにある大型機械も大半は父親が購入したものですが、将来的に機械メーカーが無くなることも見越して、部品取りのために同じ機械を5台も購入しています。そういう考え方が、今に繋がっていると思います。

私は現在、文化庁の委員会において、伝統工芸品そのものだけでなく、それを作るための道具を作る職人さんも少なくなっているといった問題点を検討する委員をやっていますが、父親の危機感は、それを先取りしていたのかもしれないですね。「部品は自分で作る工夫をする」っていうのが父親の口癖でしたから。今では本当に助かっています。

先代が揃えた金属加工機械

ピンチをチカラに

編:いつも笑顔の松田さんとお話ししていると、お仕事もずっと順風満帆だったのかな、と思ってしまいます。

松田:まさか!そんなことないですよ。私が31歳の時、工房の土地購入・建築の時期に社長を引継いだのですが、建築許可も下りて、さぁこれから新社屋でがんばるぞ!っていう時に父親が倒れてしまって大変な事になりました。父が61歳の時です。今の私ぐらいの歳ですね。急に多額の借金を一気に抱えるはめになって、そこからはもう波乱万丈ですよ。藁にもすがる思いで姓名判断をみてもらったりもして。でもそのピンチこそが、仕事に打ち込むチカラにもなったと思います。

これからの金属工芸

編:昔と今では、お仕事の内容も変わってきたと思いますが。

松田:世間が高度成長した頃、私の所も職人さんが5〜6人いて、外注さんも合わせたら10人くらい働き手がいました。戦後に住宅ブームがあって、あの頃は襖引手もよく売れていました。私が継いだ40年前頃からだんだん下降し始めて、住宅様式が変容し、襖自体がなくなってきた時期から仕事が変わってきました。それ以後、何とか分野を拡げてやってきた感じです。

編:現代では、枯渇部品を3Dプリンターで作るという取り組みも多くなっていますね。

松田:金属3Dプリンターで作ったものも良くなってきています。ただ、特殊な道具は需要がニッチなので、単価が上がります。昔は、身近な職人さんが細かい注文を聞いてくれて、1個からでも作ってもらえました。今の時代は、そういう道具を作れる仕組みも考えていかなければならないと思います。

縁が紡ぐ仕事、仕事が紡ぐ縁

編:先ほど、佛教大学のご出身と伺いました。松田さんは社寺仏閣の金属工芸も多く手掛けていらっしゃいますよね。やはりそのような「先を見据えた」進学だったのですか?

松田:いえいえ、そこまでは考えていませんでした。父親からは「どんな職業に就くにせよ、商売相手から舐められんように、大学は行っとけ!」と言われましてね。結果的には、ビジネスの戦いのためというよりも、仕事を依頼されるご住職や、先輩・後輩・同級生といった「仲間」との信頼関係を築くのに役立ちました。
「佛教大学=お寺」とも限らないのですが、クラブの先輩の住職からお寺の金属工芸のお仕事を紹介していただいて、結局は今の仕事にも繋がっていますね。お寺の散策も好きですよ。学生時代のデートコースでした(笑)。

編:お話を聞くにつれ、松田さんは「縁」を大切にされる方だと感じます。

松田:私、ほんとうに、ご縁だけでここまでやってこれたと思います。また、紹介していただいた人と意気投合して一緒に呑んだり、その人から別の仕事先を紹介していただいたり、やっぱり人間関係ですね!

編:ご縁をきっかけに、期待に応える技術があってこそ、ですよね。

松田:紹介していただいたらその方に迷惑はかけられないし、仕事はしっかりしないとね。錺屋っていうのは、金属に関する全てのことをできなければならないのですが、どうしてもできないことは仲間の力を借りたり、同業と補い合う繋がりも大切です。
その中で、もっと仕事の可能性を拡げて、できることを増やしています。現在は、日本各地の寺院、山車やだんじりの装飾、琉球王朝等の文化財の修理・復元にも携わっています。

松田氏の作品 琉球王朝尚家伝来の刀剣(号 千代金丸)金装宝剣拵(復元品)
©️錺屋(有)松田

これからの自分、これからの時代

編:お仕事に関しては、これから息子さんに代替わりしていく感じですか?

松田:そうですね、仕事はまだまだ続けるつもりですが、65歳位までには、色々な役から卒業できればと考えています。あとは、ゆっくりと気の合う人達と遊びたいけど、まだまだ無理そうですね。

九代目(修行中)松田浩佑氏の作品

編:伝統産業の若手職人の中には、人間関係が苦手な人も多いと聞きます。そういった若手へのアドバイスをお願いします。

松田:「素直になること」ですかね。私は器用な方ではないですし、真面目にコツコツやってたらなんとかやってこれました。できなかったら、身近に頼れる人に素直に聞いて、時間をかけて取り組んで技術を身につける。自分で抱え込まず、わからないことは素直に聞いたら良いと思います。
ただ、実を結ぶためには「継続」すること。私は家業だったから、辞めるにやめられなかったので、その覚悟はあったね。

編:家業ではなく、自分が初代として作り手を目指そうとすると、自由な反面、ふっと気持ちが切れて辞めたくなってしまう瞬間があるとも聞きます。

松田:そうでしょうね。うちの息子も就職を考えていたらしいのですが、家業に入りました。彼なりの覚悟があったと思います。覚悟がなかったらできないし。辞めたら次に何もない状況だから。勤め人には「定年」があるけれど、私らは60歳を過ぎても辞められないし(笑)。
家業を継いだ限りは辞められない。けど、継いだ限りは、私も息子を手助けするつもりです。

でも時には、昔の友人と集まって、山歩きしたりしたいですね。最近も集まったメンバーは、警察官・消防士・教師など公務員がほとんどで、もう定年間近なんですよね。

編:定年がある人は、否が応でも引退がありますが、松田さんのお仕事には、引退がないですよね。でも「もースッパリ金工、辞め!」と思うことはありませんか?

松田:今はまだ思わないし、辞めたって家に居場所もないし(笑)
今朝も6時に起きて、こっち来て、夜8時頃まで仕事してるから、家では落ち着かない。別に家が狭い訳ではないですけどね(笑)。

編:居心地の良さってことですね。

松田:そうそう、工房やったら何でもできますし、絵も描きたいし、字とかも書きたいし。遊びもね!そう、以前は職人の方達と書道教室もしていましたよ。
週に1回は山も歩くしね。土曜か日曜やったら5時半から6時に起きて、桃山城までウォーキングして。頂上でお城を見ながらストレッチすると、自然や季節を感じるから良いですよ!自宅から登って4キロくらいのコースで、汗かいてシャワー浴びて、一日が始まる感じかな。

編:最近お孫さんもお生まれになりましたよね? 10代目……ですか?

松田:いやいや、まずは息子がしっかりしないと絶対に無理。普通に親がやっていた仕事を自分もできるようになるのって、ほんま大変なことですよ!
同じ事やっていたら良い訳ではない。この40数年、仕事も変わってきてるから。
私がこの工房を継承してから、様々な資格を取るようになりました。簿記や溶接の資格にはじまり、水質公害防止管理者、つい数年前も水質公害防止管理者の国家資格を取得しました。金属を扱う場合、有害薬品を使用するのですが、昔と違って、ものづくりに対しても環境への配慮が求められる時代になりました。

金属に携わるからには、仕事場の環境を整えなければならなし、廃棄するにもお金が掛かる時代ですからね。特に薬品などは、下手に捨てられないし、捨てない工夫も必要です。だから設備投資にもお金が掛かる。

編:簡単ではないですね。資本も資格取得も、覚悟が要りますね。

松田:私も後継者がいなかったら、ここまで頑張ってないかも……

工房の風景

「出会いの『あい』は、『愛』である」

編:取引先が全国に渡るということは、いろんな人との出会いがありますね。

松田:それこそ人間関係ですわ。本当に人ですよ。良い人と巡り会わないとね。私は「出会いの『あい』は、『愛』である」という言葉が好きなんです。
出会いの『あい」は、愛情の『愛』に代わる。これNHKの鈴木健二さんの本で読みました。座右の銘じゃないけど、良い言葉ですよね。
いろんな人との出会いがあって、初めて自分が生かされているって感じかな。人との出会いがあって、その後に仕事は付いてくる……か、わかりませんけど(笑)仕事は縁があったらついてくるものだと思っています。
駆け引き無しに、自然に真面目に接していれば、いろんな人との縁が拡がるかな。

編:勉強になります!本日はありがとうございました。

インタビュー風景

インタビューを終えて

松田さんはいつも笑顔を絶やさない朗らかなお人柄で、自然と人が集まって来るような魅力のある方です。懐かしい思い出も大ピンチも、どんなエピソードも楽しそうにお話されるのがとても印象的でした。柔和な表情からは想像がつかないほどの凄みを感じる技巧も圧巻で、目と耳で幸せになる、そんなインタビューでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?