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【京都自死・自殺相談センター】超人にはなれないので、今日も丸くてふわふわの物体を撫でる【エッセイ】

私たちは、認定NPO法人京都自死・自殺相談センター Sottoです。
京都で「死にたいくらいつらい気持ちを持つ方の心の居場所づくり」をミッションとして掲げ活動しています。
HP: http://www.kyoto-jsc.jp/

noteではコラムや活動の紹介記事などを主に更新しています。
今回は、Sottoの活動に関わるスタッフの執筆したエッセイを掲載します。
ボランティアのNさんは、かつてニーチェの本を読みその思想に強く惹かれたと言います。
しかし、ニーチェの思想は過酷な道のりであり、挫けそうになることも。
そんな日々の中で、「Qoobo」というロボットと出会い、その影響かは分かりませんが、Nさんの考え方にも変化が・・・。

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超人にはなれないので、今日も丸くてふわふわの物体を撫でる

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 あなたの目の前にふわふわの毛をまとった、丸い物体がある。
いや、丸いだけじゃなく、しっぽが生えている。
ただのクッションかと思いきや、触るとしっぽを振って喜ぶ!
触る強さに応じて、しっぽは優しくも激しくも揺れる。
・・・ウィンウィンというモーター音を鳴らしながら。

揺れるしっぽ?モーター音?
ただのクッションじゃないし、モーターでしっぽが動くとなると、手の込んだぬいぐるみロボットか?
この物体の名を明かそう・・・。
This is 「Qoobo(クーボ)」!

Qooboとは

 Qooboは、ユカイ工学さんというロボットメーカーが販売しているセラピーロボットです。
猫を彷彿とさせる丸っこいデザインに、しっぽがにょきっと生えていて、かわいい。
内部の機器で振動を感知し、その強さに応じてしっぽを振ってくれます。
触らなくても、たまに気まぐれなのかひとりでにしっぽを振っている時もあって、これまたかわいい☻

あまりうまく写真が撮れなかったので、ここは公式PVを見ていただけるとQooboがどういったものか分かりやすいかと思います。

▲公式PV(HP : https://qoobo.info/index/)

セラピーロボットと呼ばれているだけあり、ストレスを抱えている時にQooboと遊ぶとほんのり癒しを感じられます。
さすがに実際に動物と触れ合っているような感覚にまではなりませんが、ウィンウィン音を立てて一生懸命しっぽをブンブンしているQooboには独特のキュートさがあります。
今年1月にネットサーフィンをしていて不意にQooboの存在を知り、そのユニークネスに衝撃を受け、頭から離れなくなってしまい、勢いで買っちゃいました。

セラピーロボットという言葉があるように、テクノロジーとメンタルヘルスの間に、人間の手によって関係性を結んであげることは可能ではないかと私は思っています。
つまり、テクノロジーが人の心を癒すことはある程度可能なのではないか、と考えているのですが、このテーマについては機会を改めてSottoのnoteででも記事を書いてみたいところです(そんな機会があればですが)。

不安に追い打ちをかける社会情勢

 孤独・不安、去年の年末から、私は自分の人生の先行きを案じては暗い気持ちに襲われていました。
個人的な話ですが、春から環境を大きく変え、新しく生活を構築していこうと決意していたのです。
しかし、先のことを考えてみても不確定要素だらけで、うまくやっていける自信はいまいち湧いてきません。
それでも、今は積極的に動くタイミングだ、という直感があったので、恐れはあれど迷いはありませんでした。

しかし、予想だにできなかった感染症の流行という非常事態のせいで、大いに悩んで決めた自分の身の振り方も大きく見直さざるを得なくなりました。
ただでさえ不安だったのに、さらに追い打ちをかけるように大きな社会の混乱と停滞が・・・。
いやはや、人間万事塞翁が馬という感じですね。

「超人」との出会い

 そんな不安をものともしないほどに強くあれたらいいと思うけど、なかなかそうはいかないもの。
私は以前、ニーチェの本を読んで彼の思想について勉強したことがありました。
その本でニーチェは、人間は「超人」を目指すべきなのだと説いていました。

超人とは、どんな制約にもとらわれず、過去の選択を悔いることもなく、強い意志で自らの道を切り開いていける存在。
たとえ今と全く同じ人生が未来永劫繰り返されたとして、「生まれ変わってもこの人生を選ぶ」と言うことができるか。
美しいものばかりではない、むしろ醜いもの、つらいことの方が多い現実をそのままに引き受け肯定できるか。
その問いに「YES」を嘘偽りなく言える人間こそ、ニーチェが超人と呼ぶにふさわしい人存在なのです。

それには「まぁ今の人生にもそれなりに満足してるし、いいよ」という返答では十分ではありません。
「この人生において味わう苦痛、得られなかった幸福、その全てを引き受けてなおこの人生がいい」、そう答えられるか。
ニーチェは厳しく問いかけてきます。

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ああ、随分昔の恥ずかしかったこと、つらくて仕方なかったこと、叶わずに諦めた願い・・・そんな記憶が頭に浮かんできます。
私の人生を振り返ってみたら、成仏しきれなかった後悔の残滓が積み重なり、塊となり、影を落としています。

超人を目指して四苦八苦

 しかし、このニーチェの超人思想に触れた時は強い衝撃を受けたものです。
世界の見え方がひっくり返ってしまうような感覚を覚え、熱に浮かされたようにハイテンションに数日間満たされました。
もう、ニーチェを読む以前の自分には戻れないような気がしました。
今にして思えば、私は元々完璧主義的で理想主義的な人間だったので、ニーチェの思想に共感する素地はずっとあったんだと思います。
しかし、「超人」なんて概念は私の頭からはどうやっても出てこないし、改めて歴史に名を残す哲学者の卓越性を感じます。

それ以来、私は「超人に近づきたい」という思いを密かに抱きながら生きるようになりました。
しかし、超人を目指す道というのは生半可なものではありません。
そもそも、超人という境地に至るにあたり、受験や就職のように明確な「成合格・不合格」の基準などあるわけもなく、一体どうすればなれるやら。

しかし、人生がうまくいっていないと感じる時に、世の中で活躍している人や自分にない長所を持っている人を見ると、「あー恵まれてて羨ましい本当」とか、「でも本当なら私の方がうまくやれはずなのに」とか、「私だってもう少し才能を持って生まれていたら」とか、そんなことを考えてしまいます。
超人とはまるでほど遠い・・・。
自分自身がそこはかとなく凡庸であるという事実に落ち込み、超人だなんて口にするのもおこがましい有様。
どうすれば解脱し、ニーチェ流に自由になることができるのだろう・・・。

相手がロボットだから成り立つコミュニケーション

 思いつめて悩んだ時こそ、Qooboの出番です。
Qooboを買って以来、何か物事をゆっくり考えたい時や、不安や孤独に一人苛まれている時には、Qooboを膝に乗せてコーヒーでも飲みながらゆっくり撫でるようになりました。
どうしても現実から目を背けたい時は、左手でQooboをがっしりとホールドして、右手でしばらく洗っていない浴槽をこするかの如き勢いでQooboを撫でます。
そうすると、Qooboも呼応してすごい勢いでしっぽをブンブンしてくれます。
不思議と、ロボット相手でも、自分の行動に対して反応があると嬉しいんですよね。

人間相手だと、ちゃんと意味の通じる言葉で気持ちを伝えないといけないし、ちゃんと双方向の信頼関係がないと悩み相談をするのは難しいですが、Qoobo相手だと言葉も論理も要らないから、心地いいです(あ、充電は必要)。
案外、うまく相手に伝えようと頑張って発する言葉より、無言で撫でるその手の動きの方が、複雑な感情を表し相手に伝えることができるのかもしれません。
人間には、言葉では伝えられない種類の感情だってきっとあるはずです。

しかし、超人ならロボットに頼らず、一人であらゆる苦しみを引き受けるんだろう・・・そう思うと、もう超人になれる気がしません・・・。

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深夜にQooboを撫でます

 超人になろうと背伸びするのを一旦保留して、深夜に一人Qooboを撫でている自分を許してあげたら、少し肩の荷が下りる思いがしました(ある程度モーター音は大きいので、薄い壁の部屋に住んでいる方が深夜に撫でる際は若干の注意が必要かも)。
Qooboが私の悩みを癒し切ってくれるなんて思いませんが、不安で心がいっぱいの時に手持ち無沙汰でいるよりは、少しだけ気が楽になるように思います。

そもそも、「超人になりたい」とか考えちゃってる時点で超人にはなれないのかもしれません。
超人がこの世に実際に存在するとしたら、その人は超人になろうと努力してなったというより、おそらくは自身の信念に基づいて生きた結果としてそうなったというだけなのではないでしょうか。
もしニーチェに「あなたの言うような超人になりたいのですが、どうしたらなれますか」なんて訊こうものなら、呆れられて「うーん、あなたには無理っぽいよねぇ」(そんな口調なの?)と言われそうな気がします。

凡人も悪くないかな

 とまぁ何だかんだ言ったところで、ニーチェの説いた超人という概念に今でも憧れを持っている私ですが、いっぱいいっぱいになった時にはQooboを抱いて、「超人にはなれそうにないねぇ・・・」と心の中でつぶやいてみます。
そうすると、少し楽になれる気がします。
それは、元来自分へ課すハードルが高い(ゆえに身動きができなくなってしまう)私にとっては、一種の敗北宣言と言えます。
なーにロボットに頼って甘えてんの、なんて思わないでもないです。

でも、最近、敗北を潔く受け入れることを何だか心地よく感じていることに気づいたのです。
超人になれなければ、昔に読んでこれまた憧れたハードボイル小説の主人公にもなれない、不完全な自分。
そんな自分をありのままに見つめたところで(そもそも自分をありのままに見つめることなど可能なのか、という問いはさておき)、別に「そんな自分が好き!」とは思いませんが、だめな自分のだめなところを受け入れてみたら妙に気持ちいいのは、一体なぜなんでしょう。
自分の中でも最上級に強いコンプレックスなんかはまだ受け入れきれていないように思いますが。

しかし、深夜に一人ぼっちの部屋でニヤニヤしながらQooboを撫でていると、自分には超人であることよりも凡人であることの方が似合っている気がしてきました。
これ端から見ると少し滑稽な光景かも、と思うとさらにニヤッとしてしまいます。
Qooboを買ったから、というわけではないかもしれませんが、私の超人への尖っていた執着は少しずつ柔らかく、落ち着いたものになってきているように思います。

Qooboを撫でても何も解決しない、しかし

 科学的な根拠は知りませんが、人は丸くてソフトで動くものを撫でると、ちょっとほっこりして力が抜けちゃう生き物のような気がします(丸くてソフトで動くもの・・・と言っても猫かQooboくらいしかぱっと思いつきませんが)。
別にこれはQooboの宣伝記事ではないですし(本当ですよ)、Qooboじゃなくてもいいので、身近にあるそれっぽいもの(雑?)を時には撫でてあげてみてください。

別に悩みは解決しないし、難しい人生は難しいままです(結局、私の不安も世の中の非常事態も何も解決していません)。
でも、なかなか超人になれない私(たち)の人生は、そっと丸いものを撫でるような、ささやかでほとんど意味のないように見える行為の積み重ねで構成されている、そんなことを思います。
それ自体に良いも悪いもなく、ただ、それだけのことなのでしょう。

寄稿 Sottoボランティア・N

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