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『くらしのアナキズム』の著者・松村圭一郎が影響を受けたデヴィッド・グレーバーの初期のフィールドワーク

Lost People:
Magic and the Legacy of Slavery in Madagascar

「失われた人々:マダガスカルにおける魔術と奴隷制の遺産」
by David Graeber
September 2007 (Indiana University Press)

まあなんというかあれだ。

ひとりでアカデミズムの周辺というか、はじっこのほうをウロウロしていると、ひじょうに効率が悪いって話だ。

私の読書はだいたい脈絡がない。なぜ、松村圭一郎さんの『うしろめたさの人類学』を買ったのか、よく覚えていない。でも、題名がいいな、とは思った。「うしろめたさ」っていうキーワードで考えることを始めるのはいいかも、という直感があった。

で、おもしろかった。

世の中どこかおかしい。なんだか窮屈だ。そう感じる人は多いと思う。でも、どうしたらなにかが変わるのか。どこから手をつけたらいいのか、さっぱりわからない。国家とか、市場とか、巨大なシステムを前に、ただ立ちつくすしかないのか。ずっとそんなもやもやを抱えながら、私自身、文化人類学を学んできた気がする。
この本では、ぼくらの生きる世界がどうやって成り立っているのか、その見取り図を描きながら、その「もやもや」に向きあってみようと思う。

「はじめに」の部分を少し引用したが、これだけで、「おおっ!おもしろそう!」な予感にワクワクする。

この本では、マルセル・モースの『贈与論』を手がかりに、「商品交換」と「贈与」を分けるものについて考えている。

本当は、それだけではなく、そこから「感情」「関係」「国家」「市場」「援助」「公平」と論は続いていき、広がっていくのだが、私は、この本のキモは、「商品交換」と「贈与」の部分だと思う。

私たちがいろいろなもののやり取りをするとき、「商品交換」と「贈与」は明確に区別されている。「商品交換」には除去されていて、「贈与」には付与されているもの。それは「思い」や「感情」。たんなる商品交換には、それは必要ないばかりか、わずらわしいものになる。けれども、「贈与」には、「思い」や「感情」がこもっているからこそ、お金があいだに入ってはいけない。

「商品交換」は「思い」や「感情」が取り除かれているから、とてもラク。スムーズ。でも、味気ない。いっぽう「贈与」は、「思い」や「感情」がこめられているから、うれしくもあるけど、送り手ともらい手の気持ちが一致していないと、かえって負担になったりもする。迷惑になることもある。けっこうむずかしいし、めんどくさい。

で、ものすごく乱暴にはしょってしまうと、松村さんは、「うしろめたさ」を動機にして、人との関わり方を変えていきませんか、と言っている、のだと思う。「商品交換」ではなく「贈与」を少しだけ増やしていく、そこにのせる「思い」は「うしろめたさ」。まがりなりにも先進国で暮らしている私たちは、今も飢餓が原因で亡くなる人が多い開発途上国の人たちに対して、不当に豊かであるという「うしろめたさ」が、多少なりともあると思う。その「うしろめたさ」に気づかないふりをするのではなく、そこから少しだけ踏み出してみませんか。もう少しだけ、人と関わるめんどくささを引き受けませんか、「うしろめたさ」をキーワードにして。

松村さんの主旨とはちがうかもしれないけど、私がこの本から受け取ったのは、そんなメッセージだった。

ふーむ。めっさおもしろいじゃん。ここから松村さんの考えはどう発展していくんだろう。そう思うと、去年刊行され、わりと話題になった『くらしのアナキズム』もがぜん読みたくなってくる。

と、そこで急に、仕事モード。松村さんみたいな考え方をしている人って、ほかにいないのかな?というか、似たようなことを書いている洋書ってないのかな?

『くらしのアナキズム』がけっこう売れているということは、それと似たようなことを書いている洋書があったら、売れるんじゃないか。そんなスケベ心まるだしで、anarchism(アナキズム)とかanthropology(人類学)とかで検索してみる。

あったー!

Fragments of an Anarchist Anthropology 
「アナキスト人類学の覚書」、とでも訳すのかな。

著者はDavid Graeberか。
あれ?なんか聞いたことあるような。。

David Graeberでググってみる。Wikipediaの日本語版もある。

ああ!『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論』のデヴィット・グレーバーか!

ついこのあいだ、オンライン読書会でいっしょになった人が言っていた。たしか去年、急にお亡くなりになった研究者だ。オンライン読書会で名前を聞いてから、気になっていたのだ。

しかし、『ブルシット・ジョブ』は、400ページを超える大著である。うーむ。なかなか手が出ない。

そう思ってたら、その本の翻訳をした方が『ブルシット・ジョブ』について解説しているサイトを見つけた。

かなり長いけど、本を読むよりはぜんぜんラク。

世の中には、全然無意味な仕事がたくさんあって、それがこの社会をこんなに生きにくくさせている、ってことを言ってる本で、なんというか目からウロコ。

でも、このサイトを読んでいくと、最後のほうとか、どんどん松村さんの本と近いことを言ってて、「あれ?」って思いだした。似すぎている。言ってることが。

もしやもしや?

「デヴィット・グレーバー」と「松村圭一郎」でググってみる。

あーらら。

なんと、松村さんはグレーバーさんから多大な影響を受けていた!

『くらしのアナキズム』の「はじめに」のところに、

人類学の研究がアナキズムと結びついていると気づかせてくれたのが、二〇二〇年九月に急逝したデヴィッド・グレーバーだ。

って書いてあるじゃん!

そう。そういうわけなのだ。

ひとりぼっちでこんなことやってると、本当に効率が悪い。

さいしょから『くらしのアナキズム』を読んでいれば、松村さんとデヴィット・グレーバーさんをつなぐ線はあっさり見つかっていたというのに、私ときたら、ものすごい回り道をしているじゃないか。。。なんかはげしい徒労感。。。

教えてくれる仲間がいないって、こういうとき辛いよねー

気を取り直して、グレーバーさんであるが、彼の著書はほとんどが邦訳されている。そこでやっと見つけた未翻訳作品が、今回取り上げた本というわけ。

これはグレーバーさんが1990年にマダガスカルのベタフォという地域にフィールドワークに入ったときの記録である。

英語の解説ではよくわからなかった。どうやらそこには貴族出身と奴隷出身のグループがあって、反目しあうグループでかなりの緊張状態がつづいていたらしい。

で、ここからは松村さんがなにかのサイトで書いていたことだが、ベタフォの町では政府の機能が2年前から停止しているにもかかわらず、人々はあたかもそれが機能しているかのように生活を続けていたらしい。

つまり、国や政府がなくても、人々はいきなり暴徒と化したり、無法地帯の犯罪都市になったりすることはなく、今まで通りの生活を続けようとするし、そういう各人の行動だけで、世の中はじゅうぶん回っていける、ということだと思う。

まだ読んでないけど、松村さんの『くらしのアナキズム』ってそういうことが書いてあるんじゃないの?

とにもかくにも、松村さんが影響を受けたグレーバーさんの初期のフィールドワーク。ぜひ日本語で読んでみたい。

ところで。

松村さんや、グレーバーさんの言うことって、最近、言葉や形を変えながら、いろんな人が言ってる気がするんだけど。。

例えば、マイケル・サンデルさんの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』とか、中島岳志さんの『思いがけず利他』とか、小川公代さんの『ケアの倫理とエンパワメント』とか、もっと広げるとトマ・ピケティさんの『21世紀の資本』とか。

なんか、恵まれてる人はもうちょっとそうじゃない人に分け与えて、謙虚さとか、助け合いとかを、今よりもうちょっと発揮したほうがいいんじゃないかな、って、言われてる気がする。

それは、他人のためじゃない。

そうしたほうが自分が幸せになれる。

そして、ほんのちょっと世の中が生きやすくなる。たぶん。

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