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ぼくの心を満たすものは?④

 ふと振り返った時、自分の直観というのは信じたほうがいいのかな、と思った。

 今の職場に就職が決まって―もう数十年前の話になるけど―、採用通知の封筒を開け、実際にその通知を見た時に「人生の墓場だな」と思った。周りのみんなは喜んでくれた。それに僕も採用されるために、試験のための勉強や面接対策に論文対策も頑張った。
 だけど、実際に採用通知を見て思ったのはこれ。
 なんでだろう、本当はもっと嬉しいはずなのに、少しも嬉しくなかった。

 就職してからも“何でここに僕はいるんだろう”という事ばかり考えていた。同じ年代の職員は人生を謳歌しているようだったが、僕にはその理由が分からなかった。
 結局親や周りがこうなって欲しいという仕事に就いただけ、そこには僕の希望とか理想というモノがなかった。

 高校の同級生、地元の幼馴染などに会った時も羨ましがられた。だけど僕にはそれが苦痛だった。その時は、自分がどうなりたいとかといった具体的なイメージはなかったけど、深い霧の中に手を伸ばしても何もつかめないのと同じように。だけど就職して日々が経つにしたがい、心はその仕事から離れている感じがしていた。
 実際に仕事をしてみてのやりがいという話になると、楽しい時もあった。やりがいを感じていた時もあった。だけど「地に足を付ける」という感じで仕事をしていたようには今思うと感じない。地面から数十センチ上を歩いている感じ、まあフワフワした感じか、それか苦しかっただけ。

 そんな事を思い出しながらglobeの「Many Classic Moment」の歌い出しの歌詞をいつも思い出す。歌詞については色々出展元を書いたりのルールがあり、それがよく分からないので割愛するけど、その曲の歌い出しのような状況だったんじゃないかな。心とか身体が病気になっていたんじゃなくて、そもそも本来自分が立つべき場所というのがあると思うけど、僕はそこではなくて見当違いの所に立っていたのかな、て。
「病は気から」とも言うし、違和感を感じながら生きて来て、その違和感が初めは些細なモノ、ほんと気にならないくらいのモノだったとして、月日が流れていくにしたがって、だんだん大きなズレになっていき、僕の中で修正出来ないくらいの大きさになってしまったのではないか。そのため僕はうつ病やら急性骨髄性白血病という負の運命に巻き込まれてしまったのかと思う。これはあくまで体調やその時の状況は抜きに、自分の人生の中の大きな流れで見た時どうなんだろう、て話。

 先日の朝、通勤時間が1時間になってから、初めていつも通勤中に見る景色が潤った感じの景色に見えた。前日の夕方から降り続いた大雨が朝には上がり、そして晴れていた。その青空の下、通勤路の両側を囲む街路樹はいつもの乾燥した感じではなく、遠くに見える山々も車を走らせている道路も、目に写る全てのモノに潤いが感じられ、いつも言い方は悪いが殺伐とした景色ではなく、柔らかい感じの景色を見せてくれた。
 これって人間にも当てはまらないだろうか。
 仕事が忙しかったり、生活が大変だったり、たくさんの不安を抱え込んでしまったり、何しろ心に余裕が無くなるとだんだん雑な生き方になっていくように。例えば、お風呂に入らない、食事の時間をしっかり取らない、睡眠時間を取らない、そこからイライラが治まらない、周りに当たり散らす、暴言を吐くなど。
 ただそこにしっかりとした休憩だったり、人の優しさだったりが加味されていくことによって心に潤いを取り戻せるのではないか。それが、その人の余裕だったり、優しさだったり、温かさに繋がっていくと思う。

 僕は今、まずは余裕を取り戻すために自分がする事を一旦手放すモノ、続けるモノで分けている。手放すモノは資格試験の勉強と競争意識。資格試験については、以前から受験していた試験があり合格近い点数を取った事もあったので、この際にもう一度チャレンジしてみようと思った。ただ勉強をし出したら、なんか妙に焦ってしまい自分に余裕が無くなるような感じがしたので一回離れる事にした。競争意識もそう。僕はうつ病やら白血病で今の職場は首の皮一枚で繋がっているような感じ。同期だったり同級生は自分よりも上の存在になっている。そこと今更競争してもな、と思うし、今の職場は完全な年功序列。逆転するチャンスなどない。それなら無駄な競争意識を捨てて別の事に時間や意識を費やした方がいいかな、と思った。
 あと、これは本当にいつかは復活させたい事なんだけど、初発の治療後にGibsonのレスポールスタンダードを購入した。妻が退院祝いに買う事を許可してくれた。僕はもともとピアノを幼いころから習っていた。そして中学3年くらいからシンセサイザーに憧れ、高校以降はバンドでキーボードだった。だけどエレキギターの繊細なんだけど時に激しく時に優しく、電気の音なんだけど、そこに温もりの感じられる音、縦に刻む音もあれば横に広がっていくストリングス、いやオーケストラのような音もある。艶のある音もある。その人の弾き方で色々な表情を見せるギターという楽器をいつか引いてみたいと思っていた。それで買う時に、どうせ買うなら好きなギターを買おうと思いGibsonのレスポールスタンダードを買った。でもその後、急性骨髄性白血病の再発が分かりしばらく弾くことが出来なくなった。また退院後も免疫抑制剤か抗がん剤治療の影響だろうか、腰から足先にかけて、時々身体全体、あと指先の痺れは常時感じる。でも始めたい。だから、予定ではそろそろ免疫抑制剤が終わる。そうすればこの指の痺れは無くなっていくと思う。そうしたら始めたい、レスポールスタンダードを。

 続けるモノは今しているが、この「書く」という事。
 一時期は詩を書くことに傾いていた時期もあった。Twitter、今はXと言った方がいいのかな、あの140文字で表す世界にはまったこともあった。よく分かってなかったけど、現代詩の公募に出してみた事もあった。あれはあれで面白かったけど、でもそもそも現代詩というモノがどういうモノか分かっていない。僕の場合、感覚で詩というモノはこういうモノだとな、て感じで書いていたのだ。だから実際に現代詩を書いている人から見たら「こいつのこれは何なんだ!馬鹿にしているのか!」て言われてしまう。

 僕は表現というモノは基本自由。世の中には色々な壁だったり制限がある。言葉だったり、年齢だったり、文化だったり、国境だったり、性別だったり、他にもたくさん。正直息苦しい。僕の小さい頃からそんなに世の中壁があったか、て思ってしまう。それに成長して年齢を重ねていくに従い、そこに人それぞれの思惑だったりが絡んでくる。勝手にやってろ心理ゲーム!と思ってしまう。
 そんな世界から離れて自分の頭の中にある壁のない世界を表したい、他人から見たらそれはそれで壁になるんだろうけど、その自分の意識を自由に解放させて表現する事、それがこの「書く」という事。

 僕はまだ色々な面で「彷徨って」いる。自分の本当の立ち位置はどこが正しいのかなんて分からない。ただ今カフェでこれを書いているが、アイスコーヒーを口に含み、程よい苦みとすっきりした酸味、そして火照った身体に心地良い冷たさと外に見える何でもない日常の風景が僕には心地良い。それにまだ書き始めたばかりの「ぼくの心を満たすものは?」という題名のこのシリーズ。本当にこの題名であっているかなんてほんと分からない。なんとなく思いついた題名。そしてどこに行きつくかも分からない。このシリーズ自体も今の僕のように彷徨っている。それにどこまで続いていくのかも分からない。でもこういうのもいいかもしれない。あえて自分から出口の分からない迷路に飛び込んでみるのも。そしてその迷路の中で、指が語り紡ぎ出す言葉にどんな意味があるのか考えてみるのも。

 さてさて次は何を書こうかな。

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