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レジリエンスのあるコニュニティ

私は今現在アメリカで暮らしてい流のですが、アメリカのいいなと思うところの一つに「いろいろな人や違いが受け入れられている」と感じるところがあります。これは、人種だけでなく、障がい者などいろんな意味での「違い」を含んでいます。

私の長女に発達の遅れがあり、特別教育を受けていますが、公立の小学校の普通級に通学しています。通常のクラスの中で特別なサポートが必要な子たちが数人混じっていて、必要に応じて小グループに分かれて、同じ教室内あるいは別の教室に移動したりして授業が行われています。日本でも同じような学校が増えてきているのかもしれませんが、少なくとも私が小学生の頃にはこのようなシステムはなかったので、これはすばらしいなと感じています。

私たち人間は誰一人同じ人はいません。でも、社会の中である程度平均的なものを求められたたり、「多数いる方が優勢」という空気感がありますよね。そのためにあまりに平均から外れると「違う」と認識され、「少数派」は排除されることもあります。それを排除せずに、みんなが同じ教室(あるいは同じ屋根の下)で一緒に過ごす、過ごせる環境があるというのはすべての人にとって必要なことではないかと思います。

『幼児の教育』(2023年春号フレーベル館発行)の中にこんな記事ありました。幼稚園教諭の杉浦真紀子さんがエディンバラのフレーベル教育の現場を訪ねたときのことが書かれています。

教室内では、子どもたちが教師と共に、リラックスして授業に取り組んでいました。中にはソファーに座って眺めている人、みんなとは離れた場所にいる人もいましたが、どの人もその存在を受け入れられている温かさが感じられました。

『幼児の教育 春号』フレーベル館発行

「みんなとは離れた場所にいる人」とはまさに娘のことだと思いました。集団が苦手で、ときに教室の一角にある小さなコーナーでブレイクを取ることがあると先生から聞いています。そんな娘ですが、楽しく学校には通っているので、アメリカの学校、普通の公立の学校でも、このような雰囲気はあるのだと思います。
少なくとも娘たちの学校にはあると感じています。

ここで何より素敵だなと感じるのは、
「どの人もその存在を受け入れられている温かさがある」ということです。

この文章の後も、

子どもが一人残らず大人に見守られ、安心して過ごせる生活を保障すること、自分らしくいられるように支えていくことの大切さを、あらためて確認することができました。

『幼児の教育 春号』フレーベル館発行

と綴られています。

当たり前のようだけど、学校のみならず社会という場でも、このように一人一人が安心して過ごすことができることが保障されていることはとても重要ですよね。そして一人一人の人間がその人らしくいられるようにお互いに支え合うコミュニティがもっと増えれば、もっと多くの人が生きやすさを感じれられるはずだと思います。私自身のかつて所属していた職場や学校などが、必ずしもこのような雰囲気ではなかったからこそ、より一層素敵だなと感じます。それなので、こんなふうに安心して誰もが存在できるコミュニティを作りだしていきたいというのも私の夢です。

「みんな違って、みんないい」

これは私が大切にしている言葉です。あまりに周りの子と「違う」娘を見て、不安になることもたくさんありましたが、今では娘のおかげでこのようなことを真剣に考えるようになりました。私自身、「周りと違わないように」と必死になって周りの人や環境に合わせて生きてきた人間でした。そして、それをとても窮屈に感じて、いつも苦しかったです。それなので、「違っていいんだ」「違っても大丈夫」と思って生きれる方がずっと楽で素敵だなと感じています。

「そもそも、私たちはみんな違うんだ」という大前提を思い出せば、「同じ」とか「違う」とか比較することもなく、「そういうものだ」と受け入れられ、「違い」を尊重できるのではないかと思います。(そう簡単でもない?どうでしょう。)

誰もが受け入れられていると感じられるコミュニティや社会こそがレジリエンス(回復力)のあるコミュニティや社会であると言えるのはないでしょうか。

これを読んでくださっているみなさんはどう思いますか?




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