ベイスターズ98

【にじさんじ】と【1998年ベイスターズ】

「自分がチームに残したものなんて何にもありゃしないんです。『一生懸命やったよな』ってチームメイト同士で思える、その絆は残っている」
ーーー駒田徳広ーーー
「ベイスターズは、野球しかないひとりの男を復活させてくれた、最高のチームだった」
ーーー中根仁ーーー

㊟本文において「Vtuber」という表記と「バーチャルライバー」という表記がありますが、これは全く同意味の表記揺れです。いちから株式会社はこの2単語を使い分けていません。

【はじめ】


ヲタクはすぐに好きなコンテンツを掛け合わせる…

おはようございます、バーチャルアナウンサー京野聖也です。皆さんにとって2019年はどのような年であったでしょうか?
バーチャルYouTuber業界に限れば、2018年が飛躍の年であったのに対し、2019年は業界としての急成長の反動か、ファンを心配させ悲しませてしまうような出来事が目立つ年であったと考えています。
2019年印象に残ったVtuber界の出来事は?とアンケートを取れば、
・ゲーム部プロジェクト声優交代騒動
・アイドル部、夜桜たま&猫乃木もち契約解除
・アズマリム活動困難騒動
などが上位にくるのではないかと思います。
2018年が光であるならば、2019年は影であるという印象です。

そんなVtuber業界のなかでも2019年に飛躍的に成長を遂げ、業界の覇者へと上り詰めた団体があります。
いちから株式会社が運営するバーチャルライバーグループ【にじさんじ】です。
2019年12月28日の段階で総勢90人以上のライバーを抱え、12月末に行われたマリカにじさんじ杯では同時接続約6万人を記録、ネット流行語100の年間大賞を【にじさんじ】という単語で獲得しました。
ブランディングに成功し、間違いなく今一番勢いのあり、業界を牽引しているといっても過言ではないVtuberグループです。

そんなにじさんじの活躍を観ているなかで、私はとあることを思いました。
「にじさんじと1998年ベイスターズって似ているな…」


【1998年ベイスターズとは】

この記事をご覧の方には「にじさんじ」や「Vtuber」という単語から来てくださった方も多いと思うので、少しだけベイスターズについて、説明させてください。
覚えている限りでは3番を内川選手、4番を村田選手が担っている頃からベイスターズファンです。
わかる方にはわかると思いますが、暗黒時代のなかでも最も暗いトンネルのなかにいた時期ですね。

さて、年表的に説明すると、まずベイスターズの始まりは1929年です。
大洋漁業(現マルハニチロ)が1929年に設立した実業団野球チームがベイスターズの始まりです。この時代にはまだプロ野球という興行が存在しません。この頃の野球は早慶戦が大衆の人気を集めていました。
1936年に興行としてのプロ野球が開催され、1950年に大洋漁業は大洋ホエールズという名前でリーグに加わりました。
1993年に大洋ホエールズから横浜ベイスターズへと球団名を変え、2002年には親会社がTBSとなります。
その後、2011年に親会社がDeNAへと変わり、球団名は横浜DeNAベイスターズとなりました。
これが究極なまでに簡素化させたベイスターズの年表です。

皆さんはベイスターズという単語からどんな言葉を連想しますか?
プロ野球をあまりご存じない方でも、「ベイスターズ=弱い」と思う方も多いのではないでしょうか。
その答えは紛れもなく正解です。
その証拠に、球団の通算成績5035敗という数字は、巨人や阪神という横浜より14年も早くリーグに参加している球団を差し置いて12球団最多、それも圧倒的ワーストです…
古参ベイスターズファンががたまに「TBS時代はひどかった」といいますが、数字で見ればわかる通り大洋時代からずーっと弱いです。
たまーーーーにいい順位を取ることもあるけれど、翌年にその順位をキープできていた試しがない。
歴史上黄金期が存在せず、ずーっと弱い球団、それがベイスターズです。

そんなベイスターズが一度だけとても輝いた瞬間がありました。
それが1998年です。
ホームランの脅威よりも集中打を売りとした攻撃が特徴で、打ちだしたら止まらない機関銃のような打線から「マシンガン打線」と呼ばれ、球団史上初日本一のタイトルを獲得しました。
ちなみにベイスターズが日本一になったのはこれが最初で最後、日本一経験1回という数字は12球団最小タイで、ここからもベイスターズの弱さがわかると思います。
ベイスターズを日本一という今まで観たことのない景色へと導いてくれた98年マシンガン打線をベイスターズファンは伝説と呼んでいます。

そんな1998年のベイスターズが強かった理由が、今のにじさんじが強い理由と重なって見えて仕方がないのです。
どのようなところに共通点があるのでしょうか。

【にじさんじと98年ベイスターズの共通点】

①放任主義

1998年ベイスターズの強さの原点は当時の権藤博監督による放任主義でした(権藤監督自身は「放任主義ではなく伝統や慣習を打ち壊す奔放主義だ」と語っていますが、放任主義であり奔放主義であると私は考えているため、ここではわかりやすく放任主義に統一します)。
その権藤野球の放任主義の内容とは「選手は選ばれて入ってきているのだからプロと認め、強く自主性を求める」というものです。
具体的には、練習の際には「余計なことを言わない、喋らない、教えない」を貫き、選手がアドバイスを求めてきたときだけ口を開きました。
試合の際には「いかに単純に本能で動くか」を大切にし、なるべく選手に指示を出さず、感性を大切にした野球を展開しました。

今のにじさんじの運営スタイルも根本には放任主義があると考えています。
にじさんじのオーディションは過去に配信や歌、ストリーマー、またはそれに準ずるようなクリエイティブな活動をしていた方が対象で、私自身が応募したわけではないので概要をよくは知りませんが、基本的には経験者採用と考えていいでしょう。
普通のアイドルのオーディションや一般企業の新卒採用とは大きく異なります。
権藤監督とよく比べられる名監督として当時ヤクルトの野村克也監督があげられます。
この両監督は人材に対する考え方が大きく異なっており、野村監督は「入ってきた選手を自分の子供、自分の弟子として一人前に教育していく」発想でしたが、権藤監督は「プロの世界に入った人間はすでに一人前であると認めたうえで、自分の考えを与えていく」という前提に関する違いです。
にじさんじは経験者採用で、バーチャルライバーとして入った以上はその時点ですでに一人前であり、アシストするところはアシストしながらも、ライバーの自主性に任せているように思えます。
にじさんじ所属としてデビューする時点で注目を浴びるということもありますが、デビュー順はさほど関係なく伸びている人は伸びているという印象を受け、ここに放任主義が数字的に反映されているように見えます(個人的には登録者10万人というところにとても分厚い壁があるような気がしています)。

②個性の強さ

「みんな個性が強かったですよね…(笑)。ただ試合になれば勝ちたいという断固たる決意がありました。そういうのが本物のプロではないかと思いますね」
ーーー三浦大輔ーーー
「まあ本当に個性の強いメンバーでしたよね。それこそお互いにライバル心持って、負けたくないって競い合い、伸びていった。みんながてんでバラバラの方向を向いているんだけれど、いざプレイボールがかかったら『勝とうぜ』と同じ方向を向けたことは強みだったと思います」
ーーー進藤達哉ーーー


マシンガン打線、並びに98年のベイスターズは、競争というか、個性のぶつかりによって生まれた代物でした。
ある意味で、一番の敵は味方なのです。
「あいつはまだバットを振っているのか、それなら俺もまだまだ練習してやる」
「あいつが試合で打ったなら俺も打たねば」
「負けてなるものか」
その意識から生まれたものがマシンガン打線です。

にじさんじも私の眼には同じように映ります。
基本的には前述のとおり自主性を重んじていることもあり、それぞれの活動スタイルは配信が軸ということを除けば内容はバラバラです。
各々自分の強みを生かして日々のライバー活動に精を出しています。
ライバー間の仲も良く、にじさんじという大きな括りを活かしたコラボも毎日のように行われています。
しかし先日行われた有馬記念の同時視聴、普通ならにじさんじ内でまとまればいいものを、舞元啓介さん&叶さん(ゲストに天開司さんとふくやマスターさん)、鷹宮リオンさん、ニュイ・ソシエールさんがそれぞれ枠を用意し、各々の有馬記念を展開していました。
マリカにじさんじ杯においては大きな企画のなかで練習を行い、叶さんはマリカ大手実況者のボスナさんを、葛葉さんはシトラスのかほりさんを練習にお呼びし指導を受けるなど、楽しい配信を作るという意識も去ることながら、「負けたくない」という向上心を強く感じました。
にじさんじのなかには98年ベイスターズのような、競争を煽るいい距離感があると思います。

仲は良い、しかし必要以上に慣れあってはいない。
放任主義のなかで、一人一人がプロ意識と向上心を持ち、それぞれのエンターテインメントを展開している。
これが98年ベイスターズとにじさんじに共通しているように感じた「勝ち方」です。

【にじさんじの凋落】

「98年に優勝してから、球団は黄金世代がきたと思ったんでしょう。でも、僕はそうはいかないと思った」
ーーー石井琢朗ーーー

98年ベイスターズは確かに強かったです。
しかし先ほども述べたようにベイスターズには黄金期がありません。
このマシンガン打線も数年で崩れ、三年後にはなんと最下位に転落します。
そして、ベイスターズとにじさんじの勝ち方が同じであるならば、今後起こりうるこもしれない【にじさんじの凋落】はベイスターズ弱体化の理由と似たことが原因となって起こる可能性があると考えることはできないでしょうか。
理由を探っていきましょう。
何故ベイスターズは弱くなってしまったのか。

①選手の流失と育成の失敗

最も大きなベイスターズ弱体化の原因はここにあると考えています。
99年オフ、“ハマの大魔神”と呼ばれた絶対的抑え、佐々木主浩選手がFAでシアトルマリナーズへ移籍。
00年、権藤監督が退任。駒田徳広選手、阿波野秀幸選手、島田直也選手に戦力外通告、R・ローズ選手が再契約せず退団、関口伊織選手がトレード。
01年、波留敏夫選手がトレード、進藤達哉選手と戸叶尚選手がトレード、五十嵐英樹選手が戦力外、そして谷繫元信選手がFA。
異常です。ベイスターズファン以外の方は名前を列挙してもお分かりいただけないでしょうが、ベイスターズはたった三年でチームの監督、4番打者、正捕手、内野のキーマン、絶対的抑えがチームから消えてしまいました。
にじさんじで例えるなら、CEOの田角陸さん、月ノ美兎さん、本間ひまわりさん、笹木咲さん、樋口楓さん、鈴鹿詩子さん、社築さん、ジョー・力一さんを一気に失うようなものです。
なんとなくでも伝わったでしょうか?
それぞれの選手に退団の理由はありますが、98年をガツガツとした向上心で支えてくれた選手がいなくなったことで、若手の選手たちは羽を伸ばし始めましたが、そのような選手たちに98年組の穴を埋めるには到底実力が足りませんでした。
でもほかに人材がいないのだから未熟なまま使わざる負えない、ブラック企業のような負のスパイラルが始まります。

何故若手の育成が進まなかったのか。

「当時のメンバーはほとんどが30歳手前、今だからわかるんですけど、それぐらいの年だと自分のことで手一杯で、考え方や技術的なもの、そういったことを下の世代に伝えることまで意識がいっていなかったと思うんです」
ーーー進藤達哉ーーー

当時の練習や試合での負けるものかという意識は、脂ののった時期の選手が多かったからこそ起こったもので、若手を育成する意識がチームの中に芽生えていなかった。芽生える前に主力選手が流失してしまったのです。
結果的に選手がバラバラと抜けてしまったことで個性の強かったベイスターズをまとめていた「勝ちたい」という強い思いも全体的に薄れてしまい、01年にはベイスターズの精神的支柱であった正捕手の谷繫元信選手が中日へと移籍。
ベイスターズはここからいわゆる暗黒期を迎えることとなります。
それに対して谷繫選手の移籍先である中日ドラゴンズは谷繫選手が入団した2002から11年連続のAクラス入り(三位以上)。
充実期を迎えたドラゴンズと暗黒期を迎えた横浜。
谷繫選手を失ったことはあまりに大きすぎました。

にじさんじも企業としてもそれぞれのライバーとしてもとても脂ののった時期であります。
しかし、にじさんじといえど2020年には主力ライバーの引退も起こりうるかもしれません。
企業がノウハウを蓄えることも大切ですが、ライバー同士の中で教えあう雰囲気を作れるか、去る者が何かを残してくれるか。
その雰囲気作りや、去るものを手厚く扱い、功績に感謝することが求められると思います。

②大幅な方向転換

権藤監督は1998年のあとどのような成績を残したか。
1999年、3位。2000年、3位。
悪くないどころか、ベイスターズの歴史から見れば歴代最高の数字です。
しかし球団フロントはこの順位に満足できず大きな決断をします。
「勝つために放任主義野球から緻密な管理野球へと方向転換しよう」
その結果ベイスターズ史上最高の監督はわずか三年でチームを去ります。
その後監督の就任されたのは森祇晶監督。
元西武ライオンズ監督で、在任時代の9年間でリーグ優勝8回、日本一6回という不滅の記録を持つ名将を、横浜は三顧の礼をもって迎え入れます。
これがいけなかったのです。
権藤ベイスターズが培ってきた奔放で破天荒な野球スタイルと、野球界で頂点を取り続けてきた王道の森管理野球、この高低差に選手はついていくことができませんでした。

「今まで自分の考えでやれていたものが、森さんが来て『これもダメ』『あれもダメ』という窮屈な流れになって、これまであった自主性が失われてしまいました。」
ーーー中根仁ーーー

「権藤さんの野球しか知らない世代には森さんの野球は戸惑いがありました。やっぱりうまくかみ合いませんでした」
ーーー石井琢朗ーーー
「森さんは外からポンときて、チームを変えることを求められた。外から見て森さんの野球に合わない選手は放出して血の入れ替えをしてしまった、その点は失敗だったのかなと思います」
ーーー石井琢朗ーーー

森政権一年目の2001年は98年の遺産で何とか3位に踏みとどまりましたが、2002年は前述の谷繫選手が抜けた影響もあり、開幕から最下位を独走。
2002年9月、3年契約の1年を残し、森監督は解任されました。

にじさんじ運営のいちから株式会社はこれからさらに大きくなる企業で、事業も拡大していくかと思われます。
その成長を促すために幹部待遇で誰か社外から優秀な人材が入社するかもしれません。
もしかしたらその人物がさらなる成長のために放任主義のにじさんじを大幅に改革するかもしれません。
企業には風土や色があります。
JALが経営破綻後に稲森和夫さんを会長として招きアメーバ経営を浸透させ営業利益1800億円の高収益企業へと生まれ変わらせたこともありますが、ベイスターズのように考えが浸透せず、さらなる弱体化を招く恐れもあります。
今の放任主義を大切にできなくなった瞬間。
誰かが現状に満足せず、方向転換を決断した瞬間。
にじさんじの凋落が訪れると考えています。

【最後に】


以上が【にじさんじ】と【1998年ベイスターズ】の共通点、そしてベイスターズから学ぶ【にじさんじ凋落】の要因になりうる可能性に関してでした。もうすぐ2020年が始まります、Vtuber業界が、にじさんじが、どのような采配を振るうのか。
そしてチームのキャプテン、横浜に輝く大砲、筒香嘉智選手をメジャーへ送り出したベイスターズはどれほどの成績を残すことができるのか。
不安が大きくとも、エンターテインメントが始まるとなると心が躍ります。
私自身もバーチャルアナウンサーとして精進してまいりますので、ぜひチャンネルに遊びに来て下さいね。

それでは次回のnoteでもお会いできれば幸いです。

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参考文献
村瀬秀信(2016) 『4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ涙の球団史』 双葉文庫
永谷脩(1998) 『勝つ管理 私の流儀』 小学館

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