「 2023/07/23「父性の復権/林道義」読書記録 」

優しさんだけでいいのだろうか。
そもそも本当の優しさとは何だろう。

思考の中で、「自分はそれほどに尊ぶべき存在なのだろうか」という一つの疑問が浮かんできた。
他人を思うようにコントロールすることはできない。自分はコントロールできるのは自分自身だけである。だから、いつでも自己に集中していたいと思っている。
でも自分を隅から隅まで完璧に理解しコントロールすることは不可能だ。
まず、それにやっと気づいた。
自分の意識外で、「私」という人間は鼓動を刻み生きている。

どこまで人は自分の思い通りにコントロールするようになってしまうのだろう。技術の発展と共に可能の範囲はどんどん膨れ上がっていく。
なんでも思いのまま、ができてしまう世の中。
合わないを、怖いを、理不尽を、不安を、どんどん手放せてしまうんだ。
本当は幸せなはずなのだけど、私はなんだか怖くなる。

理不尽から、絶望から、そこから得られるものは測りしれないと思う。
そもそも初めから理不尽が存在していなかったら、苦しさも生まないと同時にそこからの「始まり」も生まない。
一概の良し悪しでないからこそ、難しいと思う。
苦労はなかったらないだけいいのだろうか。幸せなのだろうか。

「自分の感情が思い通りにならないことまで耐えられなくなってくるんです。
人間が自然である以上、肉体感覚が呼び起こす感情というのは、これも自然なのです、体の中から湧き上がってくる怒り、恐怖、喜び、中でも特に扱いが難しいのが、恐怖と怒りです。
これを抑えるのは本当に難しい。
けれども、この感情ですら、自分の思いどりになるという感覚を、今、かなりの人が持ってしまっている。
そして、思いのままにならない感情に対して、逆切れしてしまうです。
「なんで俺はこんなことができないんだ」とか、「なぜ俺は人を恨んでしまうんだ」とか、良い人ほど、自分を責めていってしまい鬱になる。
天気を代えられないのと一緒で、感情も変えられないんです。
でも嵐は過ぎて陽はまた昇る。
それが信じられない。
待たずに、どうにかしてやろうと焦る。
これは生きていく上で、とても苦しいことです。」

父性について考えている。
現在は母性的な考え方が台頭し、父性的な思考が欠如した世の中だという。
学びの中で自分の思考の癖がかなり母的な面に傾いていることを自覚した。
かなり厳しい家庭で育ったという自覚があったからこそ、自分自身にその傾きが大きく存在しているとは思ってもみなかった。

父性・母性それぞれの特徴は一言で示すことのできるものではないが。
母性は全てを優しく温かく包み込み、子が一番であることに重きを置く。
全体を見るのではなく、子が一人有利で安全であることが大切とする。

理不尽さを経験する。価値観を押し付けることが重要な役目であり、それは上下関係・権威を持つことで成り立つのである。

干渉しあわないことでそれぞれの価値観を認め合うことが重要と教えられるこの多様の時代に、「価値観を押し付ける」ことは真逆に存在し、タブーされている。
それでも、父性の役目は「価値観の押しつけ」にあるのだと示す。

私は最近の子供が親の敷いたレールを歩むことに対して強く否定されていることに対してずっと疑問があった。
子どもが心から安心してここを進んでいこうと思えるレールを用意できるというのは立派な親ではないか。そもそも子供は経験も知識も乏しいのに、それだけを頼りに位置から自らでレールをひくように促すことが正しいとするのは良いこととはいいがたいのではないか。無責任すぎやしないか。
本当に手放しで子どもは育っていくのだろうか。
「自主性とはあらかじめ価値観があってはじめて持ちうるものだということがわかっている。価値観を教え込むことを否定しているので、求める自主性を子供が持つことはあり得ないといジレンマ。」
良いも悪いも、賛成も反対も、合うも合わないも、まずは比べる対象がないとそもそも成り立たない。
まず一つの意見、価値観がある所から始まるのである。
それがない状態で自分の意志なんて見つかるわけがないのだ。

子どもが一つの人格として、尊重されるべき存在であることは確かだが、
対等ではないし、大人・親の方が経験や思考の質や量は上回っている。
確かに頭だと胸を張っていられるように大人も日々努力をし続けなければいけない。そういう大人でありたい。

時代の流れは本当に著しく、親の価値観が今の時代の風潮にそぐわなくなっていく可能性は大いにあり得るけれど、人格・人間性・道徳、そういうものは時間に淘汰されずに残っていくものであると思う。

「自分さえよければいい」というのは父性の欠如だ。
25歳でそれを自覚できて良かったと思う。
この傾きを、もう自らの手で正し調整していかねばならない。
親のせいであると嘆いている暇ではない。
自分の中に強い父性を持つ人格を宿らせ、自分の在り方を厳しく律する努力をせねばならない。
長らく当たり前としていたこの傾きを修正することは決して容易なことではないと思うけれど、人生まだまだ長く続いていくと考えると、きっと手遅れではない。

他から見て、社会の一部として、美しく清らかで気持ちのいい存在である努力を。
それは時に自分にとっての美しさ、清らかさ、気持ちよさと重ならず対立してしまうことがあるかもしれないけど、臨機応変、中道を見つけていきたい。
ときに己を慎む強さを持っていたい。

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