「 無謀なような頑なさを馬鹿にする愚かさ 」ガンジー・落合恵子の言葉を引いて

明るい覚悟/落合恵子
『「差別や社会の理不尽さを「仕方ない」と受け入れることはできない人でもあった。
(「敢えて憤りを表明したところで、なんになるの?それでなにかかわった?なんにも変わらないじゃない」という声に対して)
「どうせなんにもならないから、なんにもやらない。損するからやらない…。やっても変わらないからやらない…。そういうのって、なんて言うのかな、なんだかケチ臭いと、わたしは思う。」
「わたしは、ただ、そういう自分を許せないんだと思うの」

「デモなんかしてなんになる?そう訊かれても、こうなると胸を張れるほどの答えを私はもっていない。自己満足ではないかと問われると、そうかもしれないとも思う。それでも私は参加する。誰かの為というより、そうね、自分のために。」』

私にとって例えば
本を読むこと、日記をつけること、文を綴ること、自分を律し、漠然と「素敵な人でありたい」ともがくこと。

他にも例えば
何か発信すること、主張すること、デモをすること。

意味がない?無駄なこと?

例えその通りだったとして、それは画一的に排除するのが一番美しいことなのだろうか?

今は時短できる便利さばかりが重視されすぎていないだろうか。
近道はそれほどいいものなのだろうか。
そんなふうに考える。

『あなたの行動がほとんど無意味であったとしても、それでもあなたはしなくてはならない。それは、世界を変える為ではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである』

本当に好きな言葉。
ただ必死に頑なになることも避けたいが、あらゆることに無気力になってしまいがちなとき反芻する言葉。

あまりに無謀なような頑なさを貫く存在がいる。
馬鹿にしてしまう、軽視してしまう、そんな冷ややかな気持ちを己の中に見出してしまうことが私にもある。
とても浅はかで愚かだと思う。

きっとその頑なさには意味があって、価値があって、譲れない何かがあるのだ。私にとって同様のものを見出すことができないとしても、それがどうにか己を立たせるための唯一の支柱なのかもしれないのだ。
忘れてはいけない。

そしてなにより、頑なさを有さないぼんやりとだらしなくふらふらとした姿勢は、何にもまして愚かだ。
旗色を鮮明にせず「どちらともいえない」というほうが楽だ。
楽な方へ流れるその姿の方が滑稽であるはずだ。

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