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【社会学ワンダーランド 第三回桜見る人 人見る桜 神は細部に宿るのです】学び振り返り

【「常識」はやっぱり強い。その強さに学ぶ】
「常識」とされている事柄には「常識」となり得る理由が確かにあるということ。否定したり、その逆に走り出すその前にその事実と向き合える人でありたい。その理由はたった一つのなにかでないにせよ、それが共通認識として根付いていった理由を問うていう意味は凄く大きなもののように感じる。「常識」と仲良くなるからこそ、「非常識」にも向き合っていけるということ。
「常識」からのズレとか疎外感を感じて、そこから抜け出し、新たに自分に合うものを築くことはもちろん大切であるが、もうひとつ視野を広げて「常識」がそうある理由を探ることも面白いと感じる。「常識」が「常識」となり得た、そこに潜む強さを知りたいと思う。

【「重ねる」役割】
もうすでに発見されており、その第一人者で無いとしても、「私」が声を上げて言葉に残す意味はあると思っている。その主張にささやかながら厚みをもたらすことができるということだからだ。微々たるその一層だけでは無力だとしても、何層にも重なった厚みによって、大きな何かが変わるかもしれないということ。大きな何かをひっくり返す力を宿すことができるかもしれない。みんなが驚くような大発見はできないかもしれないけど、何度もこすられた主張だとしても、その裏付けのしかた、そこまでの道のりは、「私」だけの唯一無二のものであるから。一見同じ主張に見える事柄も、それぞれの背負うその背景を楽しんでいけたらとても豊かになれる気がする。それぞれの持つニュアンスを味わうように。その幅を楽しめるのは第一人発見者にはできないことだ。

【常識と非常識の間を揺らぐ】
“「そもそも常識から距離をとる」ということが常識になっている。”“メタとベタの往復運動”凄く印象的な言葉だった。みんながハッと驚くような「何者」かにはもうなれない時代なのかもしれない。その距離感がそれぞれになっていく時代になるのかもしれない。“メタとベタの往復運動のその上を行くことが社会学を極めることになる”とあったが、それは具体的にどういうことなのだろうか。
一概に良いとか悪いとか、白黒つけることをなるべく手放していくことなのかもしれない。多くが距離を取り始めている分野以外にも凝り固まってしまっていることはないだろうか。そして「距離を取る」ことだけが大切なわけではないということ。人よりもぐっと踏み込んでみて、目の前でしっかりと向き合ってみるその細部まで知ろうとしてみることも面白いかもしれない。遠すぎの距離では見つけられなかった、もっと自分にとって心地よい距離感を見つけられるかもしれない。

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