見出し画像

不要不急とあなたの「ホーム」

ここ数年で、仏教の考え方に興味を持つようになりました。
日々ストレスや生きづらさを抱える人間が、少しでも心穏やかに生きるにはどうすればよいか?
何をどう考えて、何を思って生きて行けばよいのか?
そのマインドセットを考えていたところ、仏教にたどり着きました。
昨年くらいから、Spotifyで松本紹圭さんの「テンプルモーニングラジオ」を聴いています。
そんな中、本屋でたまたま見つけた一冊。
これもご縁。

『不要不急 苦境と向き合う仏教の智慧』。

コロナ禍により我々の行動を縛るようになった「不要不急」の四文字。
果たして何が″要”で、何が”急”なのか?この苦境をどう捉えて生きていくか?
10人の仏教者が挑む、十人十色の不要不急論。

不要不急に対して「自身で判断する軸」が無いと、他者や社会に自分の下駄を預けて生きることになる。
不要不急を問うとは、言い換えれば「自分の本当の要求は何か」を再確認すること。
このコロナ禍は、生きる上での「心の芯」「軸」を問われる状況であると言えます。

『「お客様の中に僧侶はいませんか?」ではドラマにならない』という、医者とお坊さんの対比。阿純章(おかじゅんしょう)さんのこの例えがなんとも言えず、その一文にむなしさを覚える。
そして南直哉(みなみじきさい)さんの「およそ人間はみな、不要不急の存在」という言葉はいかにも仏教、禅らしい考え方。

どの方の話も思わず唸る内容でしたが、中でも藤田一照さんの話で出てきた「ステイできる自分のホームはあるか?」が印象に残りました。

感染対策の一環として「ステイホーム」を推奨している人たちの本音は、「ステイホーム」というよりは「ステイ・イン・ザ・ハウス」、つまり「(建物としての)家屋のなかに(物理的に)こもっていてください」ということでしょう。(中略)また、at homeは「気楽に、くつろいで、落ち着いて」という意味があります。ですから、「ホーム」「家」と言う言葉は単に建物としての家屋を指しているのではなく、「魂の故郷」「存在の故郷」「真の拠り所」「帰依所」「畢竟帰処(最終的に帰ってくるところ)」「安息の場」というような精神的な、さらにこう言って良ければ宗教的な、意味合いやニュアンスを暗に持っているのです。


「ステイホーム」の号令は、私たちの生活にどんな影響を与えたか?
「ホーム」を「家庭」と捉えた場合、肯定的な面を見れば、家族との時間を大切にするようになった、「おうち時間」を楽しむようになったという声があります。
一方で、もともと「家庭」という場所に居心地の悪さ、場合により恐怖さえ感じていた人たちにとって、「ステイホーム」は地獄のような号令です。
コロナ禍により自殺者が増加しているという背景には、その「家庭」での脅威、あるいは、もともと「ホーム」だったものが「ホーム」では無くなるという状況の変化も一因として考えられます。

しかし、なにも「家庭」ばかりが「ホーム」ではありません。
「ホーム」とは、「拠り所」「安息の場」といえる場所や、良好な人間関係の存在するところ。
自身が生きやすい「ホーム」を求めて、複数のコミュニティに足を運ぶ。
そこが「居場所」と思えるならば、そこを軸に生きていくのが良い。
これは平野啓一郎氏の「分人」の考え方にも通ずるものがあります。

「不要不急」という言葉に惑わされない。
「要」と「急」から、解放される。
己の軸を持って、この苦境を乗り切っていきましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?