回復の時差・個人差が生む衝突

トラウマが生む不都合な現実~トラウマ・インフォームド・ケアの視点で記したように、トラウマの観点は加害者に対しても適用されるという意味において、被害者だけを庇うものではありません。むしろ、トラウマと向き合うことは被害・加害の連鎖を止めるのに寄与すると見做すのが現実的です。

宗教二世問題についても同様のことが言えます。「宗教二世」で括られる対象が非常に多岐に渡ることは専門家向けの親の思想信条に悩む子世代(“宗教二世”等)への支援で言及していますが、親世代が属した組織のカルト性が高かろうがそうではなかろうが、親世代もまたトラウマタイズされて来た可能性が高いのです。

こういう観点に触れるとよく引き起こされるのは「だから親を許せというのか?」という反発です。もちろん、世の中にはそういう文脈、意味合いでこの内容が発せられることもあると思います。それは適切な指摘ではありません。発信者がトラウマタイズされたことに苦痛を訴えている最中は、それは役に立たないどころか加害性をもつ言葉になるかもしれません。

同時に、同じ人がトラウマを和らげさせ、少し広い視点から物事を見るようになったとき、親世代の苦悩を理解し始めることがあります。それだけ余裕をもてるようになったのかもしれませんし、年齢を重ねて親の視点を共有しやすくなったため、そう思える場合もあります。憎しみから解放されることは、当事者を楽にする面があります。

被害性と加害性は常に相対的なものです。かつて被害を受けた側が加害化する⇒新たな被害が生じる⇒そこで回復、解放に至らなければ、やがてかつての被害者が加害化していく、という負のループをどう止めるかは社会全体の課題です。それに対して個人が被害性に向き合うとき、加害側の都合に惑わされることなく自分の傷を最終的には自分で癒していく権利があります。それに個人で取り組んだり、個別のサイコセラピーを受けることなどはそのような作用をもたらします。

自助活動で起こる衝突の多くは、この回復の時差や個人差が生み出すものであろうと思います。当事者が出会った当初のハネムーン期には圧倒的な類似性に目が向きます。当事者が孤独感を募らせていればいるほど、その効果は強烈で唯一無二の味方を得たような感覚をもたらします。しかし、互いの姿がよく見えるようになるに従い、回復の時差に目が向き、近い関係になったからこその強い葛藤が起こります。

被害がもたらす感情はとても強いエネルギーをもち、それをどこにどう向けるかによって回復にも差が出て来ます。エネルギーをぶつけても大丈夫な対象や状況もあれば、そうではない対象や状況もあります。被害は恥の感情を伴い、匿名性と相性がよいため、SNSでよく訴えられますが、SNSも万能ではありません。SNS独自のダイナミズムに飲み込まれ、回復の足元を掬われる危険性もあります。

社会で自分ほど被害を受けた者はいない、自分の状況の酷さは誰にも理解されないという強い思いが、新たな他者を傷付ける場合もあります。自分の傷を理解しない相手にそれをぶつけたとき、表面的には溜飲が下るかもしれませんが、それが回復に役立つわけではありません。自分の被害の酷さを自らドグマ化してしまう危険性もあります。犯罪に至った多くの加害者は、自分の被害性を盾に加害に正当性があると信じています(※)。カルトリーダーはオウム真理教教祖を見てもわかるように、かつて被害を受けてきた人間です。それと同じ構図に嵌るのは避けた方がよいでしょう。そもそも他者の被害性は目に見えないものです。自分の被害性を理解しない相手もまた、別の被害性をもっているかもしれません。それを、同じ経験をしたことがないから理解出来ないのだと責めたところで、自分も同じことをしているだけかしれません。

プリズンサークルという加害者臨床を描いた作品が参考になります。

一般的な被害・加害の連鎖は不適切な養育や虐待、被差別経験などによりますが、ことカルト的組織の場合、第一世代である親世代もカルトにトラウマタイズされています。しかし、カルトによる搾取の多くはとてもソフトに感じさせる技術をもちいており、カルトメンバーはあたかも自己選択したかのような感覚に陥らされています。その結果、傍から見れば搾取に見える行動もカルトによる新たな意味づけがなされ、それを搾取と認識しなくなります。そのような夢から覚めない親世代に不適切な養育を施された第二世代が自我を持ち始めて、それが虐待だと気付いても、親世代はよかれと思ってやっているので気付くことが出来ません。その事実を受け入れる準備が出来ている当事者とそうでない当事者との間で衝突が起きることもしばしばです。

カルト的組織の生み出す構造的問題であれ、一般的な虐待や不適切な養育の結果がもたらす問題であれ、絶対的な加害と被害は存在しません。常に相対的なものです。かつて与えてしまった加害に向き合う機会があるのであれば、害を与えた側に対して償う姿勢が必要ですし、そこに至る前提に受けた被害に対する癒しが必要です。そうでなければ納得して加害相手に向き合うことは出来ません。同じような構図に陥っている者同士が同じスピード、同じ感覚で回復するわけでもありません。何が正解か不正解かを争っても個人の傷を深めあうだけかもしれません。被害からの回復には人と過ごす時間、自分に向き合う時間、それぞれが必要なのです。

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