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(専門家向け)裸の王様~透明性と権威性 カルト問題と心理専門職

「高名とされる臨床家が裸の王様でない保証はあるか」ー心理専門職に関心をもって以来、私の問題意識にあることです。それは、私がカルト問題をきっかけにヒューマンエラーの学びを経験したからでもあります。

カルトは登場人物を素晴らしく、能力をもつ人間であるかのように見せるのが大変得意です。特にカルトメンバーで構成された集団の雰囲気の中でそれを上手くやり遂げます。「この先生は大変お忙しいのに、あなたのためにわざわざ時間を割いて来てくださった」「成功するために自分がお世話になっている師匠を紹介する」などと表現するのはカルト的な勧誘にありふれた、ありがちなやり方です。持ち上げる対象人物の権威付けも出来ますし、そんな人と出会えるあなたはラッキーな人だと勧誘される側の気持ちも鼓舞出来ます。

翻って臨床家の営みは古典的には密室のものです。今日、心理専門職が行うのはもちろんそれだけではなく、集団であったり、オープンにされるようなものもありますが、狭義の心理療法、精神療法の大家は個室での営みを評価されてきました。当人が著作や講演などを通して名前を売ったり、それを周囲が評価したりすることが多いのですが、それらは多くの人にとって伝聞であり、実態を確かめる術をもちません。だから、クリティカルに考えると、果たしてそれはどのように信用したらよいか、大変戸惑うのです。

ただし、これは臨床家に限った問題でもなく、私たちは多くの情報を伝聞として受け取り、そこで判断を下しています。スタップ細胞の有無に関して、ほとんどの人は直接確かめる術がないか、それを理解する専門性をもちません。私たちは科学の権威を信用し、あるときはそれが存在すると受け取り、報道を通してなかったと認識するようになりました。カルト問題が報じられるとき、人々はなぜそんなものに騙されるんだ、と渦中の人々の愚かさを指摘しがちですが、実は、私たちは多くの情報処理過程で間接的な情報の権威性を頼りに判断しているに過ぎません。

さて、臨床家の仕事については、幸い、私はその後、比較的オープンに実際の場面やそれに近いロールプレイを見る機会に恵まれました。大学院や実習機関で継続的に陪席させてもらう機会を得ましたし、認知行動療法などエビデンスを重視する手法では実際場面を再現してもらえ、統合志向の研究会ではクライアントの許可を得て実際のセッションを見せてもらう機会も与えられました。海外の映像教材では役者さんの協力を得てではありますが、実際の再現場面が記録されています。

ただし、これは私がそういう場面を選択してきたから得られたものであり、日本の心理専門職養成全般に普遍的なことではありません。今も逐語や文章にまとめたもので学ぶ文化は根強く残っています。本当にこれでよいのかと危惧します。なぜなら、ヒューマンエラー研究の世界で訓練を受けた私は、個人が文章に落とし込むことと実際の場面との間に大きな差があると認識するからです。例えば、言葉が途切れる間を表す表記、クライアントの様子を修飾する表現は筆記者の認識によって示され、その時点で筆記者の解釈が入り、バイアスがかかります。文字化することはクライアント、臨床家双方の仕草、振舞い、表情、声、息遣い、それらから受け取れる様々なものを消し去ります。同じ場面を映像や、少なくとも音声として共有する場合、実態に即して受け取る側に各々の認識や解釈が生じます。筆記者の独断を超える解釈の多様性も浮かび上がります。その可能性を捨象して筆記者の一存に任せてよいのか、疑問を抱きます。さらに、事例検討ではその解釈をもとに情報の受け手が別の解釈を載せ、さらにその場の権威者(教育者)が独自の解釈をし、場が納得させられるダイナミズムも起こり得、伝言ゲームのように実際の場面からかけ離れていってしまう恐れもあります。

「高名な臨床家」かどうかは、せめて実際のロールプレイ、再現場面を見て納得したいものです。実際、ベテラン臨床家の実際の映像を見せていただいた際は、その方も虚心坦懐に「ここは上手く行かなかった」など反省的にご自身の取り組みに言及しておられ、見る側も安堵したものでした。ベテランは高く見えないところにおわします無謬の存在ではありません。常に虚心坦懐に互いの取り組みを振り返りあえることこそが、臨床家としての能力の一端を示すものではないかと思います。

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