見出し画像

「自分を幸せにするのは、大人として当然の責任だよ」と言われたこと

4週間と少しのオーストラリア滞在から帰国してしまった。
帰ってきたくなかった。日本が真冬で、大寒波が来るというニュースを聞いていたからでもある。だけど、それだけじゃない。わたしにはもう、本当に帰りたいと思う場所がなくなったから。

ブリスベンに滞在を決めたのは、出発まで1週間を切ったあと。他の街へ行く予定だったのだけど、こっちの方がよさそう!と判断して変更。(この話はまた別の機会に)
12年前にワーキングホリデーでオーストラリアにいた時、確か乗り継ぎだったかで一泊したくらいの場所。橋を渡って博物館に行った記憶しかない。逆にそういう新しい場所に行って過ごしてみるのもいいと思った。誰もわたしのことを知らない。行く先々が目新しい場所で、真夏の日差しの中で見る街の緑が鮮やかだった。

そして、この街でわたしは感情を取り戻した。

去年はずっと感情を押し殺さないと生きてこれないくらいだった。本当の望みを思い出すことさえ辛くて、思い切ってあげた声も届かなかった。家族の中で、わたし一人だけが予定を諦めて家族のサポートに回った。わたしがやるのは当たり前かのように扱われ、家族の外の人たちにも「しょうがない」「がんばれ」とばかり声をかけ続けられた。何度も何度も、「わたしは本当は予定があったのに、それを止めてここにいるんだ」と言っても誰も気にしていないようだった。どれだけ他の家族が大変か、そしてわたしが助けるべきなのかを諭すようにいうだけだった。

やりたいことをやるのはワガママだ。
自分のことは我慢して、家族のサポートに回るべきだ。

大人になるということは、そういうことだと無意識のうちに思い込んでいた。そうしなければ、と。だから「わたしが今持ってる望みは、捨てなければいけない」とさえ考えていた。
でも、自分の中から叫び声が聞こえてくるようだった。聞かないふりをするけど、それはどうしても苦しくて、些細なことでしょっちゅう苛立つようになっていた。

心の内から湧き上がってくる思いなんて、上っ面の言葉なんかでは消せやしない。本気でやりたいことなんて、そういうもんでしょ。

それでも、小さな頃から染み込んだ考え方は、ちょっとやそっとじゃ崩せなかった。その考えがこびりついた頭が、体も心も止めにかかっていた。そのことには薄々気づいていた。

でも、それにはっきり気付かされた。その場所が、12年ぶりに行ったオーストラリアだった。
とあるきっかけで、わたしの身の上話になった。「家族のためだけど、自分にとっては全くしたくないことをしなければならないかもしれない。そうすることが自分の責任だとも感じる。」と声に出すのも精いっぱいだったけど伝えた。わたしはその時、同情されることを少しは期待していたのかもしれない。相手が言ったのは全く別のことだった。

「大人になったのだから、自分が幸せだと思う選択をしなきゃ。それが大人としての自分の責任だよ。なぜ親の言葉に囚われているの?」

頭を殴られたかのような衝撃だった。わたしの思っていた「大人」の責任と真逆だったから。

幸せになるのは、ワガママじゃない。自分を幸せにすることは、誰かを不幸にすることでもない。誰かが自分を幸せにしてくれるのでもない。そして、幸せだと感じられないのも他人のせいではない。

自分を幸せにすることは何かを知ること、そしてそれを選択することが大人としての責任なのだ。


あの苦しい中、半年後のオーストラリア行きを予約した自分のことくらいはほめたい。
なんだ、わたし諦めてなかったんじゃん、幸せになる選択を。このことに気づいただけでも、オーストラリアへ行ってよかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?